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こぼれた涙

 学校にいても、1日落ち着かなかった。担任の連絡事項も授業の内容も、右から左に抜けていく。  俺が、大竹先生を好き……?  何度も何度も考えた。  そうなのかもしれない、と思う。  絶対にそうでは無い、とも思う。  自分の気持ちに向き合うことが怖かった。  大竹は清香が好きなのだ。それなのに、いきなり自分が庇護している生徒が自分を好きだなどと知ったらどう思うだろうか。  迷惑に思うだろう。いや、それより自分は男だ。男にそういう意味で好かれていると知ったら、大抵の男は気味が悪いだろう。しかも大竹は設楽が山中達とどれだけ特殊な関係だったか知っているのだ。  大竹に、知られてはならない……。  自分が大竹を好きなのかそうでないかは取り敢えず保留にしたとしても、とにかく今のこの葛藤を、大竹に知られてはならなかった。  1日ずっと落ち着かず、でも大竹に会わずに帰るのも何となく厭で、設楽は悩みながら、それでも放課後化学準備室に向かった。  今まで化学準備室は設楽にとって唯一の安息の場で、心の拠り所だった筈だ。それがこんな気持ちで足を向けることになるなんて……。  準備室の前で入るべきが入らないべきか思い悩んでいると、いきなり後ろから声を掛けられた。 「おい」 「うわあぁぁあっ!!」  振り返ると大竹が立っていた。手に何か書類を抱えている。帰りのHRの後、職員室にでも寄っていたのだろうか。 「なんだ、でかい声だな。お前、今そん中勝手に入ると、学年末考査の受験資格無くなるぞ」 「え?」  まぬけた声を返すと、大竹は片眉だけを器用にアーチ型に持ち上げた。 「今日から試験期間だって、HRで言われただろ?」  ほら、と、準備室の入り口脇の掲示ボードを指さすと、試験範囲が貼りだしてあった。 「あー、学年末かー」 「……お前、HRで何聞いてたんだよ」 「えーと…、聞いてなかったかも……」 「大丈夫かよ、おい」  そのまま準備室のドアを開けようとして少し考え、大竹は準備室ではなく、化学室のドアを開けた。中には、いつものメンバーが並んで教科書を開いている。  試験期間中は部活は当然禁止だが、化学部のメンバーは毎回、「いや、後輩の勉強見てやってるだけです」と言い切って、いつも通り化学室でたむろしているのだ。 「取り敢えず、そっち入ってろ。ちゃんと勉強しろよ」 「……そっか、じゃあ先生のコーヒー、飲めないね」  思わず寂しそうな声が出てしまったので、ハッとして口を押さえる。だが大竹は設楽の口調に気づかなかったようで、小さく口元で笑っていた。 「お前、ホントにコーヒー好きだな。後で俺が飲む時、一緒に淹れて届けてやろうか?」 「いや…、俺だけ特別デリバリーはまずいっしょ。大丈夫、我慢します」  ちらっと大竹の顔を見上げると、大竹はまだ口元だけで笑っている。 「土曜日はどうする?猿橋行くか?」  全く気にしてないらしい顔に、少しだけ複雑な気分になる。  当たり前だ。  男である設楽からそんな好意を寄せられると、大竹が思う筈がない。 「……家で験勉するから良いよ」 「あぁ、それが良い」  二学期の期末の時は、どうしても土曜に1人でいるのが辛かった。大竹はそれが分かっていたのだろう。神保町での買い出しに付き合わせる、という名目で、設楽を家から連れ出してくれたのだ。  膝がガクガクするほど大量の本を持たされた後、「試験期間中に教師の自宅はまずいだろ」と、神保町にある古い喫茶店で、閉店の9時まで化学以外の理数系を丁寧に教えてくれた。  ほんの2ヶ月前の話なのに、何だか随分懐かしい。  あの頃は、大竹との距離感に悩む事なんて無かった。山中のことを諦めないといけないことが辛くて、1人でいると山中と高柳が今頃何をしているのかと、そればかり考えてしまうから、大竹が隣にいてくれることがただありがたかった。  そうだ。俺はあの頃から、大竹先生に甘えていたんだ。  先生が俺だけを特別に扱ってくれてると思うと嬉しかった。どこまで先生が許してくれるのか、確かめたかった。先生に甘えることで、俺は先生が俺をどれだけ好きでいてくれるのか、試していたんだ……。 「……設楽?」  黙ってしまった設楽を不審に思ったのか、大竹が顔を窺ってくる。  大竹の目。大竹の眉。何かを聞き出そうとするように少し開いた、大竹の唇。  俺……。 「どうした?」  ……俺、大竹先生が、好きだ……。  思わず涙が頬を伝った。大きく目を見開いた大竹が声を掛けるより先に、設楽は踵を返してその場から逃げ出した。

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