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部活の後ー2

「先生、猿橋は春休みに行こうよ」 「あぁ」  大竹の大きな手が設楽の顔をぽんぽんとはたいた。  唇が、何かに堪えるように僅かに歪んで見えた。苦しんでいるようにも、笑っているように見える、奇妙な歪み。  それから大竹は何かを払拭するように小さく溜息をつくと、いつものように口角をニヤリと挙げた 「まぁ、教師は生徒と違って春休みなんて無いんだけどな」 「うそ!!」 「嘘じゃねーよ。春休みなんて新年度の準備で死ぬほど忙しいに決まってるだろ。2週間しか無いんだぞ?」 「そっか…」  それでは、春休みに大竹に面倒をかけるわけにはいかないのか。急に心細い気持ちになって大竹を見ると、大竹は設楽の頭をはたいていた手で、今度は設楽の髪をくしゃくしゃにした。 「つう訳で、猿橋は土曜に日帰りだ」  パァッと、自分でも顔が明るくなったのが分かった。うぅ、俺、現金だな……。 「分かった、了解です」  大竹の優しい瞳に嬉しくなって、設楽は小さく笑った。  もっとも、相手はあの大竹だ。そんな甘い雰囲気で終わる筈もない。 「ま、その前に学年末テストだけどな。お前この頃ボーッとしてるから、どんだけ成績落ちるか分かったもんじゃねぇし?化学の成績落ちたら、猿橋どころの騒ぎじゃねぇな」 「ぐわ!てめぇ、テスト前のナーバスになってる時になんてことを……!!」  設楽が真っ赤になって睨みつけると、大竹は楽しそうに笑った。  藤光学園では一年のクラス割はミックス編成だが、2年以降は進路別クラスになる。設楽は私大理数系希望で、早慶マーチを狙うならAクラスに入らなければならない。クラス編成は学年末テストの結果が重視されるから、冗談ではなく、今は全生徒が試験に対してナーバスになっているのだ。 「……先生、マジで俺、来年理数Aクラ狙えそう?」 「さぁ?俺がそういうこと喋るとでも思ってんのか?」  大竹はまだニヤニヤとしている。この顔をどう取れば良いのか……。 「じゃあさ、試験終わったら教えてもらうってのは……?」 「一昨日来やがれ」 「はあぁあぁぁぁ~」  設楽は机に頭をめり込ませた。 「俺、春休み、どこも行く気に無れないかも……」 「じゃあ家でおとなしく勉強してろ」 「やだ!」  ガバリと顔を上げて大竹を見る。 「やだ、猿橋行きたい!」 「分かったから。ま、その為には試験頑張れ。ほら、もう遅いから帰れ。体調管理もしっかりな」 「うん。コーヒー、ご馳走様でした」  試験期間中に生徒がこんな時間まで残っていることは、本来なら禁止されている事を思い出し、設楽は慌てて鞄を担いで立ち上がった。別に何をしていたわけでもないが、化学室で生徒と2人きりで会っていたことが分かれば、大竹に迷惑がかかるかもしれない。 「じゃあ先生、失礼します」 「おう」  化学室のドアを閉める設楽の耳に、もう設楽は廊下に出たと思ったのだろう、大竹の小さな声が聞こえた。 「そうか……終わったのか」  緩やかな溜息と共に、確かにそう聞こえた気がした。

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