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猿橋
化学部の先輩達の助言に従って、現社と古典は捨てた。元々設楽は暗記物が得意ではないし、私大理数系クラス希望ならその辺は捨てて、理数系と英語だけ勉強しろとアドバイスされたのだ。私大理数系Aクラの小早川が「俺も古典と体育が2だった」と力強く保証してくれた言葉に乗っかって、後はもう運を天に任せるしかないだろう。
その甲斐があったのか、蓋を開けたらテストの成績は思ったよりも良く、化学に至ってはなんと最高得点を叩き出した。高柳は学業に関しては一切設楽を特別扱いしないので、試験に関するヒントはかけらも与えてくれなかった。それでもこの得点が出せたのは、ひとえに大竹に褒められたいというスケベ心の故だ。
答案を返す時、大竹は目線をちらりと上げて設楽を見ながら、口元だけでうっすらと笑って見せた。
うっは、みんな見た?この笑顔は俺のだよ?俺の為に先生笑ったんだからね!?
この笑顔の為に勉強したのだと思うと、設楽はその場で小躍りしたくなるほど嬉しかった。
廊下に張り出された番付は、現社と古典が足を引っ張ってそれほど奮わなかったが、肝心の通知票を見る限り、来年はAクラスに入れそうだった。
大竹は「頑張ったご褒美に」と言って、約束通り猿橋観光に連れて行ってくれた。
朝8時に迎えに来た大竹は、成る程本当に忙しいようで、随分くたびれた顔をしていた。
「先生、大丈夫ですか?うちの子の我が儘に付き合って下さらなくても良いんですよ?」
母親はそう言って恐縮していたが、大竹は「俺の気晴らしでもありますから」と言ってくれた。
1日大竹と一緒だった。日本三大奇橋の猿橋を見学した後、桂川の渓流を散策し、いつも通り温泉に浸かった。
設楽は幸せだった。
幸せなのに苦しくて、泣きたくなるのに傍にいたいこの気持ちが、人を好きになるということなのか。
足を伸ばして勝沼で夕飯を食べてから家に戻るともう九時を過ぎていて、母親は「少し休んでいって下さい」と引き留めたが、「家近いんで大丈夫です」と、大竹は素っ気なく帰ってしまった。
「大竹先生って、いっつもああよね。たまには上がってってくれれば良いのに」
最初、設楽が大竹と2人で出かけるようになった頃、何も知らない母親は部活の関係で出かけているんだろうと思っていたようだった。それが途中から個人的に会っていることが分かってきて、「何で大竹先生とばっかり?彼女はどうしたのよ」と不思議そうにしていた。だが、設楽が家でも不安定になっていくに従って、何かあると感じたのだろう、そのうち何も言わなくなっていった。
まさか男同士の三角関係とは思いもしなかっただろうが、「年上の悪女にボロボロにされている」くらいのことは想像していたようだ。男と女を入れ替えれば、あながち間違ってはいない。そして大竹が、そこから息子を立ち直らせようとしていることにも、母親は気づいていたようだ。だから母親には、大竹に対して感謝の念しかない。
「あんなに疲れた顔してるんだし、泊まってけば良いのにねぇ」と呑気な声を上げる母親に、「一応学校の先生だし、生徒の家に泊まるのはまずいんでしょ」と、設楽は少し申し訳ない気持ちで答えた。
3人家族の設楽の家は、母親が若いこともあって、友達のような親子関係を築いている。それでもこの年にもなれば親に言えない話もたくさんあるけれど、それを別にしたって一粒種の自分が年上の男の、しかも教師ばかりを恋愛対象にしているとは、さすがに言えるわけがない。
もしそれを言ったら、両親は泣くだろうか。少なくとも、母親は泣くような気がする。
それでも。
例え大好きな両親を泣かせても、設楽は大竹の傍にいたいのだ。
この気持ちが叶うことがないのだと自嘲めいた気持ちでいっぱいになりながら、「どうせ実る事なんてないんだから、好きでいるくらい許してよ」と、設楽は心の中で小さく謝った。
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