96 / 111
ブラックコーヒー
放課後の化学準備室。設楽は高柳の席に座っていた。化学準備室にいるときは、いつも大竹の机の隣りに椅子を持ってきて座っていたが、今日はそういう気分にはなれなかった。
高柳の席は窓側で、入り口側の大竹の机と向かい合った配置になっている。ここに座れば、窓際に並ぶ結晶を目にしなくて済む。
熱くて苦いコーヒーをブラックで喉に流し込む。こんな時でも……いや、こんな時だからこそだろうか、大竹のコーヒーは胸の中に染みいるように旨かった。
「設楽、土曜日どうする?」
「……優唯ちゃんは?」
「イヤ、今週は預かる予定はないな」
「そう……」
山中先生に誘われているから行けないと言わなければ。でも、もしそれを言って、大竹が山中と自分が縒りを戻したと思ったら?大竹には終わったと言ったのだ。
確かに終わった。終わって、今山中と自分の間には友情が成立していることを、大竹は知らない。
「またどっかトレッキングでも行くか?」
先週のゴールデンウィークは飛び石で、1日だけ丹沢でトレッキングをした。トレッキングの間、設楽の胸は少しだけ弾んでいた。ここには清香を思い出す物は何もなく、結晶のかけらも見えない。大竹は山にいるといつもの皮肉っぽい顔を引っ込めて優しい顔をするし、新緑は美しいし、水の音は爽やかだった。
「梅雨がくる前に、長瀞でラフティングとかも良いな」
大竹は1人でつらつらと計画を立てている。きっと、設楽が丹沢で見せた明るい顔を期待しているのだろう。
何故だろう。その顔を見ていたら、急に苦しくなった気がした。
丹沢で見せた、大竹の優しい顔。大石の急所で設楽の手を引いて岩場に引っ張り上げた、大竹の筋張った腕。渓流の岸で並んで飲んだコーヒー。
あの渓谷で、大竹の目は設楽だけを見ていた。
でも今、設楽の後ろには結晶の瓶が並んでいるのだ。
自分がこんなに女々しいなんて知らなかった。これは、自分で選んだことなのに……。
「設楽?」
大竹と高柳の机の間には、ブックエンドに積まれた本や、書類入れが堰 を作っていて、互いの顔は半分しか見えない。その隙間から大竹が設楽を見つめていた。壊れ物を扱う様な気遣わしい大竹と目が合ったとき、設楽は思わず「土曜日は行けない」と口走っていた。
書類の間から大竹の驚いた気配が伝わってきた。この半年の間、土曜は2人で過ごしてきたのだ。大竹が驚くのも無理はない。
だがその距離感が、設楽を苦しめるのだ。
驚いた顔を見せたのは一瞬で、大竹はすぐに顔色を戻した。
「そうか」
それだけ言ってマグカップを持ち上げる大竹に、設楽は胸が掻きむしられるような気がした。
俺が好きなのはあんただ。あんたなのに……!
ぐらぐらと目眩がした。
絶対に、自分の気持ちを大竹に知られてはならない。でも、体の中に渦巻く炎がある。
言ってしまいたい。
いやダメだ。俺の気持ちを知られたら、もう先生の傍にはいられなくなる。
でも。でも……!!
設楽の頭の中は沸騰して、真っ白になった。もう何も考えられない。どうして良いのか分からない……!
どうして俺ばっかりこんな思いをするんだ。どうして俺ばっかりこんなにあんたが好きなんだ。もうだめだ。先生が清香さんを好きでもかまわない。先生に俺の気持ちを……いや、だめだ!言ったら終わる。絶対に言うな……!
先生が見てる。何か言え。先生が変に思う。でも何を?いや、言うな。俺の気持ちを気づかれるな。でも、でも、でも……!
そうして設楽は、沈黙に耐えきれずに机の上を睨みつけながら、無意識に口走った。
「土曜日は、山中先生に会うから……!」
ガタッ────
鋭い音に目を上げると、大竹が腰を浮かして自分を見下ろしていた。
目は驚愕に見開いて。
眉間には深く皺を刻ませて。
「……設楽……?」
お前、終わったんじゃ……声にならない唇がそう動くのを見るなり、設楽は椅子を蹴って立ち上がった。
何を言った?
俺は今、大竹先生に向かって、何を言った?
「俺、部活行ってくる……」
「おい設楽」
「コーヒーごちそうさま!」
「設楽!」
設楽は大竹を見ないで、化学室へ続く扉を開けた。
来週から中間テストの試験期間が始まる。大竹とは暫く顔を合わせることは出来なくなる。
傍にいたいのに。
先生の顔を見ていたいのに。
先生の声を聞いて、匂いをかいで、気配を感じていたいのに。
それがこんなに苦しいなんて、思わなかったんだ……!!
部活のメンバーが、いきなり涙ぐんで化学室に入ってきた設楽を、驚いたように見つめている。
「ど…どうした?」
「何でもないよ!!」
乱暴に鞄を机に叩きつけると、設楽は作業台に頭を突っ伏して、動けなくなった。
ともだちにシェアしよう!