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新しい結晶
月曜日、いつも通り放課後に化学準備室に行く。今日から試験期間だ。ノックして扉を開けると、大竹が心配そうに廊下に出て来た。
「設楽……」
「先週はごめんね、先生。俺ちょっと不安定だったから、先生に心配させちゃったんじゃないかと思って、謝りに来たんだ」
大竹の背中の向こうに新しい結晶の瓶が見えた。あぁ、優唯ちゃんを預かる予定はないと言ってたけど、清香さんには会ったのか……。沸き上がりそうになる感情に、設楽は必死に蓋をする。
大竹の前では、辛い顔をしない。
今まで通りの俺でいて、俺は先生の傍に居続ける。
「……大丈夫なのか?」
「うん。もう大丈夫。ごめんね、先生」
笑顔で言うと、大竹は唇を引き結んで、目線を逸らした。
「……もう山中とは……」
大竹はほとんど吐息だけのような小さい声で言いかけて、慌てたように口を噤んで片手を上げた。
「いや……、いや、すまん。俺が言う事じゃなかった。忘れてくれ」
「大丈夫だよ。もう大丈夫。へへ、ちょっと怒られてきたんだよ。俺、最近だらしなかったから。でももう大丈夫」
設楽の笑顔をどう取ったのか。大竹はますます眉を寄せて、「そうか」と小さく呟いた。
「そうか…、分かった。お前がそれで良いなら、きっとそれで良いんだろう。あぁ、試験範囲は写したか?」
「うん、大丈夫。あ、明日質問持ってくるね。あと、プリントちょうだい」
「あぁ……」
大竹は2、3年の生徒には自主学習用に、各大学の過去問や対策プリントを配っていた。やればやっただけくれるので、一部の生徒からは「大竹式公文プリント」と呼ばれている。ただし、次のプリントを貰うには、前のプリントに全て丸を貰わなければならない。化学選択の3年生は、1年間で500枚近く貰うという噂だ。
「はい、こないだ貰ったプリント」
「ちょっと待て、採点済みのプリント持ってくるから」
大竹の顔はもう元通りだった。先程見せた眉間の皺もなくなっている。
「プリントはひとまず休んで、試験対策やっとけよ」
「試験範囲のプリントは無い?」
「この辺かな……」
大竹の腕が、書類棚から分厚いファイルを持ってきて、パラパラとめくりながら数枚のプリントを抜き取る。
白衣の袖がたくし上げられていて、二の腕に浮いている血管が見えた。
設楽の好きな腕だ。大振りな時計がよく似合うが、それがダイバーズウォッチなのが大竹らしかった。
「じゃあ明後日また質問持ってくるね、先生」
「……ああ」
何か言いたそうな大竹を置いて、設楽は化学室に向かった。後輩の勉強を見てやらないといけないし、三年の先輩にヤマを張ってもらいたいし、何より大竹と壁一枚隔てただけの場所に座っていたかった。
化学の試験範囲を浚って、質問をまとめておく。これで水曜に大竹に会いに行く口実が出来る。後は大竹式公文プリントをやりまくれば、いくらでも大竹に会える。そんなことをしなくても放課後にはいつも大竹に会いに行っているのに、設楽は大竹に会うための口実をアレコレと探していた。
火曜日は大竹の研修日で、水曜は山中と高柳の研修日だ。水曜の放課後は、北棟3階には大竹しかいなくなる。だから設楽は、一年前には嫌いだった水曜日が、今では一番胸が昂揚する日になっていた。
だが。
水曜の放課後に準備室の扉が開くと、設楽は小さく目を見開いた。なんと言って良いか分からず、ただ笑うかしかなかった。
「はは…、そっか……」
「設楽?どうした?」
大竹の肩越しに、新しい結晶が見える。月曜に出来た物とは違う、新しい結晶が。
そうか。昨日の研修日に、清香さんと会ったのか。
「ははは…」
「設楽?」
自分が泣いているのか、笑っているのか分からなかった。自分の前髪をぐしゃりと掴み、目元を大竹に見られないようにする。
「何でもないよ。先生、質問、良い?」
「ああ…」
大竹が途惑っているのが伝わってくる。設楽は精一杯笑顔を作って、ノートを開いた。
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