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結晶ー1

 あれだけ勉強に身が入らなかったのだから仕方のないことだが、生物と数Ⅱがやばかった。平均を下回ることはなかったが、Aクラを維持するには少々心許ない。  それでも化学だけはクラストップを死守したから、どれだけ設楽は大竹に良く見てもらいたいのかということだ。  だが例え化学の点がずば抜けて良くても、他が二つも基準から落ちていたのは事実だ。担任からは「期末もこの調子だとヤバイと思っておけ」と釘を刺された。  プライベートの鬱憤を勉強にぶつけられるほど、設楽の心は強くはなかった。  試験期間明けの土曜はまた優唯を預かるらしいので、その時に大竹が数Ⅱと生物を見てくれると約束してくれた。大竹のせいで落ちた成績だから、大竹に面倒を見てもらうのは理屈に適っているような気もする。  大竹は本職の教師だけあって、教えるのが巧い。そういえば去年の2学期末に神保町で理数系を教えてもらったときの成績はぐっと良く、Aクラ入りの布石になったものだ。  土曜日、とにかく勉強のことだけ考えていようと、設楽は教科書や参考書をまとめて大竹の部屋に向かった。  部屋に入るともう優唯が待っていて、すぐに設楽の足下に絡みついてくる。 「ともお兄ちゃん!」 「優唯ちゃん、こんにちは」  頭を撫でて優唯と遊ぼうとすると、それはすぐに大竹に止められた。 「優唯、今日智兄ちゃんは勉強だ。だから優唯も一緒に勉強の時間だぞ」 「べんきょう!?ゆいちゃんもべんきょうするの!?べんきょうって、何するの!?」  大竹はこの時のために用意したのだろう、幼稚園児用のドリル数冊とお絵かき帳を取り出して見せると、優唯は目をキラキラ輝かせた。 「まずはこのくるくる線を描く奴だ。できるか?」 「できる!」 「よし。じゃあ、出来たら先生に見せて下さい。上手に出来たら丸で、すごく上手に出来たら花丸をあげます」 「はい!」  優唯が大人しく、真剣な顔でドリルをやっている間、大竹は設楽の中間試験の答案用紙を暫く黙って眺めていた。それからおもむろにペンとノートを取り出し、丁寧に解説をしてくれる。  問題の基本的な解き方だけではない。この問題では出題者が何を求めているのか。何故この問題を間違ったのか。どこに気をつければ良いのか。  解説は分かりやすく、大竹の几帳面な文字がノートに書き込まれていくと、数式はするすると頭に入った。  ……大竹先生、悪いけど数学科の先生より教え方巧くないか……?それとも、大竹先生の言うことだからするする頭に入るってだけ……?惚れた弱み的な……?  一通り数Ⅱの解説が終わって類似問題を解くように指示すると、次に大竹は生物の解答用紙を手にして、少しだけ眉間に皺を寄せて設楽を見つめた。 「お前、暗記物苦手だよな」 「ってゆーか、暗記物ってつい後回しにしちゃって、時間が足りなくなるんだよ」  大竹は「そんな感じの間違い方だよな」と生物の解答用紙を見て頷くと、「何のためのIT世代だ。iPhone貸せ」と手を差し出してきた。訝しげに思いながら自分のiPhoneを大竹の手の上に乗せると、「フォルダいじるぞ」と、勝手に「生物フォルダ」を作り、参考書を開くと試験範囲だった微生物の写真を、名前と交互に写していく。 「これを電車ん中とか暇な時にスライド再生させてりゃ良いだろ。写メ撮るだけなんだから単語帳作るより簡単だし、どこ行くにも忘れずに持って歩ける。各教科の単語帳売ってるから、そいつも写メって暗記物はそれで乗り切れ。間違ってもカンニングには使うなよ」  黙々と写メを撮りまくる様子を眺めていると、大竹はiPhoneから目を離さずに「何やってんだ」とくぐもった声を上げた。 「生物は俺が撮っておくから、お前は問題集解いてろ。化学記号や化学式も撮っとくぞ」 「お、お願いします」  それから暫く、設楽は問題集に、大竹は写メを撮ったりフォルダの整理をするのに集中して、ろくに会話もなかった。  昼食後に少し優唯を公園に連れて行き、帰ってきてからもずっと参考書に向かっていた。分からないところは遠慮無く大竹に訊くと、大竹は作業の手を止めて、何でもパッパと的確に答えてくれる。  勉強のことだけを考えていられるのはありがたかった。大竹の匂いに包まれたこの部屋で、余計なことを考えると心が折れてしまいそうだったから。  優唯は2人の真剣なやりとりに、我が儘を言ってはいけないと思ったのか、大人しくドリルや絵本を相手にしていた。時々出来たドリルや書き上がったお絵かきを見せてくるが、設楽達の邪魔をしようとはしない。大人ばかりの家で育ったせいか、大人が話している時は大人しくしているようにと躾けられているのだろうか。それが何となく不憫だった。  夕飯には、優唯からピラフにホワイトシチューを掛けた物をリクエストされた。大竹が「何で別々に食べないんだ?」とイヤな顔をすると、優唯は「ほいくえんで人気メニューなんだよ!」と反論する。にぎやかな夕食が終わると、1日馴れないドリルをやって疲れたのか、優唯は早々に眠ってしまった。 「ベッドに寝かしてくる。その後皿洗ってくるから、お前も少し休んでたらどうだ。お疲れさん。今日は助かった」 「助かったのは俺の台詞でしょ。先生マジありがとう。あ、だから皿は、俺が洗うよ?」 「いや、良い」  大竹は優唯を大事そうに抱き上げて、奥の寝室に連れて行った。暫く静かになった部屋の中で、設楽はそっと溜息をついた。  知らない間にじっとりと疲れていた。馴染んだ部屋の筈なのに、大竹の生活感が染みついたこの部屋は、設楽の何かを刺激する。  暫く台所で水音がして、また沈黙が落ちる。足音がして居間のドアが開いたが、大竹は入り口に立ったまま、中に入ってこようとしなかった。

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