2 / 86

第2話

 彼こそラウルだ。  表情はやや硬いものの、さほど緊張している様子はない。それどころか黒曜石のように美しい双眸が悪戯っぽくきらめく。  シータの曲調に厳かなものが加わるにつれて、鋭さを増しつつあった目つきが、人垣の中にモニの姿を認めたとたんやわらいだ。  娘たちが代わるがわるモニに抱きついて、きゃあきゃあと笑いさざめく。ラウルとモニは現時点では恋人未満の関係だが、いずれふたりは結婚する、と目されていた。  現にモニがラウルに微笑みかけ、彼が右手の親指を立てて返すと、睦まやかな雰囲気が醸し出される。娘たちが、いっそうかまびすしい。  精神を統一しなきゃいけないときに騒いで。カイルは娘たちを睨み、ところが険を含んだ視線がラウルに流れると、憧憬(しょうけい)の色を帯びる。  特別の衣装に身を包んだラウルは、素敵だ!   漆黒の髪が狼の毛皮でこしらえたチョッキをかすめるさまが、精悍な容姿を引きたてる。屈伸運動をするのにともなって、二十数個の狼の牙から成るネックレスが胸元で躍り、英雄譚の主人公さながら勇ましげだ。  いわば祭司に選抜された青年は頬にひと刷毛、羊の血を塗る習わしだ。一条の(くれない)が不敵な笑みにゆがんだ瞬間、カイルは無性にどぎまぎした。    夏の陽射しに照らされて給水塔の影が濃い。  広場に檻が運び込まれた。祭りに備えて生け捕りにしておいた狼が、鉄格子の隙間から口吻を突き出して唸る。  歴代のボス狼の中でもずば抜けて悪がしこく、きわめて俊敏な一頭だ。この狼が率いる群れの腹におさまった羊の数は、五十を下らない。  不覚をとって捕らわれた今は、憎しみに燃えて全身の毛が逆立ち、口の端にあぶくが溜まって、見るからに禍々(まがまが)しい。  おまえらを皆殺しにしてやる、というふうに黄色みがかった目が爛々と光る。  村人の間を戦慄が走り、いっせいに後ずさりをする。空気の底にひそむ狼の匂いにおびえて、放牧中の羊たちがひと塊に身を寄せ合う。  カイルは掌をズボンにこすりつけて、汗をぬぐった。大丈夫だ、と自分をなだめる。  ラウルはこれで三年連続、大役を仰せつかって闘い方を熟知している。ラウルは狼よりすばしっこくて、狼より勇敢で、狼より強い。  だがラウルに与えられた武器は小刀が一丁。    これにそそぐ狼の血を、と村長が銀の(さかずき)を掲げた。  檻の戸が開け放たれるや否や狼が矢のように飛び出し、ラウルはひらりと後ろに跳んだ。  瞬時にお互いの力量のほどを推し量って、強敵だ、と気持ちを引きしめなおした様子だ。ひとりと一頭は、一定の距離を保ったまま反時計回りに()を進める。  一瞬の油断が命取りになるとあって、どちらも慎重な足どりだ。ラウルは小刀を逆手(さかて)に握り、狼は頭を下げ気味にして牽制し合う。  村人が十重二十重(とえはたえ)に祭場を囲み、熱気が渦を巻く。士気を鼓舞するふうにシータが吹き鳴らされた。ラウル、ラウルと声援が飛んだ。  手始めにこいつを血祭りにあげてやる、とばかりに狼が先に動いた。  体勢を低くすると、勢いよく地面を蹴り、横合いからラウルに飛びかかった。

ともだちにシェアしよう!