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第3話

 いちどきに悲鳴があがり、幼い女の子が母親にしがみついた。  カイルは思わず腰を浮かせて、隣り合って座る男に頭をはたかれた。モニは蒼ざめ、友人の胸に顔をうずめた。  不意を衝かれてもラウルは落ち着き払っていた。狼の口と平行に腕を突き出し、革紐を分厚く巻きつけてある部分にわざと嚙みつかせておいて、後ろ肢が完全に浮くまで腕をあげた。  狼が牙をゆるめざま、巨体を振り飛ばしながら身を翻す。漆黒の髪が波打ち、(おもて)を彩った。  狼が飛びのいた。尻尾を後ろ肢の間に巻き込んでいるが、ひるんだと舐めてかかれば逆襲を食う。現に口吻がめくれて牙が覗く。  カイルは今度は膝立ちになった。座っていろ、と尻を引っぱたかれても知らんぷりを決め込む。  単身、狼を(たお)す。  それが掟で、(いにしえ)からの儀式とはいえ、ラウルが命を()して闘うさまを見ているだけだなんて胃がきりきりする。  もしも、もしもだ。狼が猛攻をかけてきて、ラウルに不利な展開になれば、掟に背いた(かど)で村八分にされても、おれが助けに入る。  一変して広場は静まり返り、人いきれでむんむんする。ひとりと一頭は時折、わざと全身の力を抜いて相手の油断を誘ってみるものの、みすみす罠にかかるほど抜けてはいない。  じりじりと間合いを詰めては遠ざかることを繰り返したすえに、ラウルが機を見て打って出た。足腰のバネをきかせて跳躍した。  気圧されたように狼の反応がわずかに遅れ、脳天めがけて振り下ろされた小刀をからくもかわした。  銀灰色の毛がまとまってちぎれて、それでなおさら興奮した様子だ。口吻に皺を寄せて唸る。頭を下げてラウルを()めあげる。    村の歴史においても、この夏の一騎討ちはのちのちまでの語り草となった。  一進一退の攻防がつづき、しかしどちらも決め手を欠く。ラウルは敏捷な身のこなしで狼をいなす一方で小刀を振るう。  ところが名うてのボス狼は瞬発力に(すぐ)れて、しぶとい。致命傷を与えるには至らず、逆に牙がかすめてズボンに鉤裂きができた。  狼のほうも切り傷を負い、毛皮のあちらこちらが血でまだらに染まった。  カイルは祭場に飛び込むそぶりを見せるたびに、力任せに引き戻されて尻餅をついた。モニは、すでに泣きじゃくっていた。  村長の弟が万一の事態に備えて猟銃に弾を込め、狼に狙いを定めた。    三十分あまりにわたって激闘を繰り広げたすえに、ラウルがついに勝機を摑んだ。手拍子に力を得て、なめらかな足さばきで狼を翻弄する。  狼は徐々にふらつきがちになり、瞳が濁っていくようだった。それでも祭場の真ん中で四肢を踏んばると、威嚇するふうに、あるいは運命を呪うように咆哮した。  そして破れかぶれなのか、それとも起死回生の一撃をみまうつもりなのか、思い切り跳んだ。 「うりゃぁーーーっ!」  ラウルが、吼えた。生臭い息が顔にかかる寸前まで我慢したうえでしゃがみ、左右ひとまとめに後ろ肢を摑むが早いか跳ね起きた。  その余勢を駆って巨体を逆さ吊りにしてのけ、返す手で喉笛をかき切った。鮮血が迸り、掉尾(とうび)を飾った。  狼が最後の力を振りしぼって、もがく。  ラウルの足に牙を突き立てた、かのように見えた直後、巨体がどうと倒れた。すぐさま腹が切り裂かれて、心臓が摑み出された。

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