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第10話

 今しも、せせこましい部屋を見回して顔をしかめた。 「都会の女の人はマンションという立派な建物に住んでいて、床を這い回る機械が掃除をしてくれて、爪を綺麗にしてくれるお店もあるのよ! 指が荒れ放題のあたしとは大違い。あぁあ、どうして田舎に生まれちゃったのかしら」     カイルは(くし)を手にすると、豊かに波打って腰まで届く、蜂蜜色の髪を(くしけず)ってあげた。 「都会の女だって、モニの髪にはきっと嫉妬する。切るのはもったいない。それに……」  結婚式の当日、花嫁は長い髪に魔除けのイラクサを編み込んでいきながら伝統の形に結う。ラウルの腹づもりでは、式は来年の春か、遅くとも夏だろう。  では冒険する価値はある、とカイルがモニをけしかけ、姉がそれを鵜呑みにして髪をばっさりと切ってしまった場合は?   しきたりを破ったら災厄が降りかかるとの理由で、髪が伸びるまで式は延期だ。  カイルは鋏を櫛に持ち替えて、枝毛を切りはじめた。近いうちにうれしい悩み事が増えるよ、とラウルが結婚を申し込むつもりでいることをほのめかす。  それが正しいあり方だ。だが、本人が都会風の髪形にしたいと言っているのだから、手伝ってあげるのも親切のうちかもしれない。  後ろ髪をひと房、あらためて掬いとった。  何か得体の知れないものに手足を操られているように、鋏を当てる。顎の線で切りそろえるということは、五十センチは短くするということだ。  再び花嫁の条件を満たすまで数年の猶予が与えられれば、もやもやするものが消えてなくなって、心の底からふたりを祝福できるようになるはずだ。  生唾を吞み込んだ。ひとまず自分の腕の産毛を剃って切れ味を確かめる。  どす黒い感情が泡のように浮かぶ。髪を切ってしまえば、遠回しに拒絶された、とラウルが解釈して結婚の話そのものがなくなる公算が大きい。 「髪を睨んでぶつぶつ言って。そんなに枝毛がたくさんあるの?」  シャツの裾を引っぱられて、ハッと我に返った。結婚を妨害する行動に出ようとするあたり、おれの潜在意識はどうなっているのだろう……?  指に張りついて離れない鋏をもぎ取り、笑顔を取り繕った。 「とにかく、女優を真似ることはない。それより今日は行商のトラックが来る日じゃなかったっけ。広場に行って列に並んでおかないと、めぼしいものはすぐ売り切れるよ」 「大変! 化粧水とシャンプーがもう少しでなくなっちゃうの。買いそびれて一ヶ月も我慢するなんて耐えられない」 「腹の足しにもならないものなんかより、塩と電池の予備は? 針金と釘も」  呼び止めても、モニはすでに表に飛び出したあとだ。美白に関する知識をテレビから得て以来、日に焼けるのを極度に恐れるようになって、麦わら帽子を引っ摑んでいったのは天晴れだが。  カイルは舌打ち交じりにバケツを取りにいった。行商人は客をさばく合間に、方々の街で仕入れてきた噂話を面白おかしく語って聞かせる。おかげでモニの都会かぶれは、ひどくなる一方だ。  水道水より、井戸水を汲み置いたもののほうが甘くて美味しい。両手にバケツをぶら下げて、集会所の裏手に掘られた共同の井戸に向かう。  小石を蹴った。都会、都会と何が楽しいのだろう。玻璃(はり)さながらの蒼天と、さざめくような星空は千金に値するじゃないか。  地平線が赤々と燃え盛る夕景も、果てが見えないほど大きな虹も、きっとネオンの海より美しい。  緑したたる草原も、釣り糸を垂らせばマスがかかる湖もある。確かにつましい暮らしだが、身の丈以上のものを求めても不幸になるだけだ。

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