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第12話

 これ以上、片意地を張るようなら殴り飛ばす。カイルは拳を固めて、ラウルの鳩尾に狙いを定めた。と、そのとき。 「牧草を家の前に放りっぱなしで、夜露に濡れちゃうわよ」  ドアが開き、鍋を抱えたモニを先頭に、ラウルの母親と弟妹がつれだって帰ってきた。  間が悪い、とカイルは姉を軽く睨み、露骨に顔をしかめた。ぽってりした唇が、鮮やかに赤い。何キロ分の塩の代金が、あの新しい口紅に化けたのだろう。  モニは、そ知らぬふりで鍋を竈の上に置いた。蓋を取ると、杓子でかき混ぜた。 「ごはんにしましょう。そうだ、行商が来た日は、無駄づかいをしてとがガミガミ言うの。ラウル、誰かさんをなだめてね」  御意に、とラウルが敬礼の真似事で応じ、ふたりは共犯者めいた笑みを交わした。  カイルは、ひとまず牧草に防水シートをかぶせに行った。モニがラウルを味方につけるのはいつものことで、疎外感を味わわされるのは慣れっこだ。  いい大人が、いじけるのはみっともない。そう自分を叱り飛ばすはしから続けざまにため息がこぼれる。  どの家の煙突からも、煮炊きをする煙が立ちのぼる。モニが碗にシチューをよそう横で母親が野菜の炒め物を大皿に盛りつける、というぐあいに未来の姑と嫁の呼吸(いき)はぴったりだ。  その光景が無性に癇にさわり、カイルは爪の間に入り込んだ牧草を苛々とほじくった。モニねえちゃん、と弟妹がまとわりつけば、貧乏ゆすりが止まらない。  と、ラウルと視線がからんだ。約束だぞ、と唇が動くと気圧される。  カイルはシャツの上から狼の牙を握ると、努めて口許をほころばせた。ラウルの足のあれはカサブタの変種で、時期がくれば自然と剝がれるのかもしれない。そうなると、いい。  翌日、日の出とともに羊の乳を搾りはじめるラウルの姿が放牧地にあった。足を引きずりがちな理由を羊飼いの仲間に問われると、 「寝ぼけて転んじまった。まっ、便所に落っこちなかっただけマシだ」  顔じゅうに皺を寄せ、鼻をつまんでみせて笑いを誘った。  一連のやりとりに耳を澄ませていたカイルは、はらはらしどおしだった。ラウルは草の根につまずく。ふだんは疾風(はやて)のように駆けあがる丘を、ゆっくりゆっくり歩いて登る。  シャツが背中に張りついているのは、きっと平然と仕事をこなすために、汗だくになっているせいだ。  ラウルを病院に担ぎ込みたい、ついては協力を、と村長に相談してみる? あるいはモニに? 駄目だ、約束を(たが)えて、裏切り者という烙印を押された瞬間に、世界は闇に閉ざされる。  悩み事を抱えているときに限って、時間が経つのが遅い。眠れない夜を数えて四日後の朝早く。辺境の村々を訪問して回る医師たちを乗せた車が、地平線の彼方から土煙をあげながら現れた。  マイクロバスとキャンピングカーとジープから成る、隊だ。巡回医療の一団が到着する何時間も前から、診療所の前には長蛇の列ができていた。  マイクロバスが診療所に横付けにされた。運転席を除く座席が取り払われて、代わりに超音波検査機やレントゲンが据えつけられている、というふうに走る診察室さながらの改造がほどこしてある車輌だ。  重病の患者をドクターヘリの中継地まで搬送する役目を担い(といっても半日がかりだが)、それとともに帝王切開や虫垂炎などは、その場で手術を行う。いわば無医村に暮らす人々の命綱だ。  看護師が整理券を配るのを待ちかねて、一番乗りの老婆がどこそこが痛いと訴えた。それを皮切りに、血圧が高い、血痰が出た、と我勝ちに声を張りあげはじめた。  カイルは塀の陰に隠れて様子を窺っていた。ラウルは厳しい。放牧地を離れてうろついているところを見つかったら、こっぴどく叱られる。だが、ラウルが受付をすませるのを見届けないことには、何も手につかない。  そのラウルは毎回恒例の病気自慢が一段落したころ、祖母をおんぶして歩いてきた。ときおり立ち止まり、忌々しげに足首を回してみるあたり、かなり歩きづらいのだろう。

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