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第19話

 ラウルが席を蹴った。瞬時、仁王立ちになったものの、踏んばりきれずにくずおれた。  がりがりと音が聞こえそうなほど歯を食いしばり、涙は一滴もこぼれていないが目が赤い。その目は怒りに燃えてぎらつき、あたかも市村が病原体そのものであるかのように彼を()めあげた。  今でこそ羊飼いにすぎないが、ラウルは騎馬民族の血を引き、それだけに気性が荒い面がある。肘かけにすがってとはいえ、忿怒の形相もすさまじく、あらためて立ちあがった。  そして狼の喉笛をかき切ったさいと同様に、鋭い動きで松葉杖を振り下ろす。  テーブルの天板にひびが入り、カップが砕け散った。破片のひとつがカイルの頬をかすめてどこかに飛んでいったが、痛くも痒くもない。それより糸が切れたあやつり人形のように、へたり込んでしまったラウルを助け起こすほうが先だ。 「怪我しなかった? 起こすから摑まって」 「鬱陶しい、病人扱いするな」  腰に腕を回すそばから突き飛ばされて、カイルはしぶしぶ引き下がった。崔と楊も加勢にきたものの、ラウルはそれも撥ねつけて自力で起き直る。  さらに、これ見よがしに胡坐をかいて嘲笑う。 「あれもできません、これも無理です。大した名医さまだな、立派な肩書きが泣くぞ」 「先生の言い方は厳しい……いえ、脅しです。患者さんの気持ちを考慮して、もう少しオブラートに包んで説明するべきです」    アイリーン・リーが眉をひそめがちに発言すると、 「では訊くが、『維管束を動脈ごと抜き去ることは将来的には実現可能』などと、うそぶくほうが残酷ではないのかね。将来的とはいつのことだ? 病状がこれ以上悪化する前に目処(めど)がつくのか? などと(いたずら)に期待を抱かせるより現実を直視してもらうことが、ラウルくんには有益だと判断した」    市村は滔々と応じた。眼鏡を押しあげると、ラウルに真摯な眼差しを向ける。 「決して見通しが明るいとはいえないが。我々一同、最善を尽くす」  面談室が丸ごと、絶望感という水をたたえた湖に沈んでいくようだった。  ラウルは虚ろな顔で「樹皮症」と呟いて噴き出し、けたけたと嗤った。涎が垂れてもぬぐうそぶりさえ見せずに、けたたましく嗤いつづける。息が切れるまで笑いこけたすえに、畜生、と繰り返し叫びながら床を殴った。 「あたし精一杯、看病する。しっかりして」  モニがラウルの正面に膝をつき、幼子(おさなご)をあやすように髪を撫でた。  芝居がかった物言いが、無性に気にさわる。無意識のうちにモニを睨んでいた自分に気づいて、カイルは窓辺に退いた。ラウルを慰めるのはモニの役目で、彼もそう望むはず。自分の出る幕ではないのに、姉を妬ましく思うなんて最低だ。  ふと視線を感じて振り向いた。市村と目が合い、口をへの字に曲げると、医師はその反応を面白がるふうに眉をあげた。  ところで国立病院の建物群を俯瞰すると、各科の診察室や手術室がある本棟を中心に、三つの病棟が風車の羽のように別方向に張り出している。  人の出入りが多いそちらとは(おもむき)(こと)にして、洒落た造りの平屋が立ち並ぶ一郭がある。面談室を出たあと、そのうちの一軒に案内された。  寝室がふたつに居間と小さな台所、浴室とトイレも備わっているというぐあいに、ちょっとした一戸建てのようだが、れっきとした病室だ。  たとえば患者用のベッドは電動式で、枕元にはナースコール。壁の要所、要所には手すりが取りつけられている。  一般の入院患者や外来患者、それから見舞い客が迷い込むのを防ぐために塀を巡らせてあるここは、ホスピスだ。末期がんの患者などが、家族水入らずで過ごすことができる環境が整っている。  通用門の脇には看護師の詰め所があって、部外者を締め出す対策が二段構えで講じられている。小道が病室と病室を結び、日当たりのよい中庭で季節の花が咲き匂う。  ラウルの入院生活が長期に及ぶことは、もはや確定的だ。  ならば少しでも快適に暮らせるように、との配慮に基づいて便宜が図られた。市村が率いるチームの医師たちが日に三回、回診に訪れるとのことで、至れり尽くせりといえた。

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