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第20話

 もっとも市村曰く「こう言っては語弊があるが、奇病に冒された患者がいるとマスコミに嗅ぎつけられて、すっぱ抜かれでもしたら厄介だ。その点、ホスピスは隠れ家にうってつけだ」。    閑話休題。各戸の出入り口──即ち玄関には専用のポーチまでついている。真っ先に中に入ったモニが、その場で一回転した。 「すごく広い、すごく綺麗。(ふところ)と相談しろってカイルが選んだ大学病院の近くの安宿には南京虫がいたのとは大ちがいね」 「腹をぼりぼり搔きながら毎晩、ぐうすか眠っていたくせに」  カイルはモニのかたわらをすり抜けざま、指の背で頬をつついた。ところが意外に力が入ってしまったとみえて、いやというほど背中をつねって返された。  ともあれ台所を覗いてみた。(かまど)は見当たらないが、包丁も鍋もある。これならラウルが食べたいと言えば、サラダくらいは作ってあげられる。 「病院代は全額免除だとよ。あの、いけ好かない眼鏡の医者にとっちゃ、世界で十八例目だかの珍しい患者は、いじりがいのある実験動物と一緒さ」  ラウルはソファにごろりと横になり、 「いやぁね、ひがまないの」  モニは年上ぶったふうにラウルの鼻をつまみ、軽くねじったあとで、大げさに両手を打ち鳴らした。 「そうだ、蛇口をひねるとお湯が出るのよね。お風呂の用意をしてくるから、ゆっくり浸かるといいわ」  ラウルは蠅を追い払うような手つきで、おしゃべりを遮った。そして背もたれのほうを向く形に寝返りを打つと、吐き捨てるように言った。 「カイル、今度こそ約束を守れ。病名がわかった、モニをつれて村に帰れ」  カイルは、頬をふくらませてソファにかがみ込むモニの口を掌でふさぎ、居間の隅に引っぱっていった。 「検査づけで疲れていて、頭も混乱しているんだ。そっとしといてあげよう」  カイル自身、説明を聞いても得心がいくどころか、かえって訳がわからなくなったというのが正直なところだ。男の躰に起きる大きな変化といえば精通を迎えることだが、ラウルの場合はいずれ株分けができるようになる、とでも言いたいのか?   市村は実は医師を(かた)る狂人で、樹皮症云々じたい妄想じゃないのか? ただ、ひとつはっきりしていることは。  ラウルとモニの結婚話は当面、棚上げだ。  と、ラウルがむっくりと躰を起こした。靴下をむしり取ると、 「モニは、ちゃんと見るのは初めてだな」  挑みかかるように片足を肘かけに載せた。  はびこっているものが雑草なら、羊に食べさせればすむ話だ。しかしラウルの臑から下に野放図に広がりゆくものは、得体の知れない代物(しろもの)だ。仮に、それを削り取っても、維管束という元凶が動脈に巣食っている限り、再び樹皮がまた皮膚を覆いはじめて元の木阿弥だ。 「どうだ、傑作な眺めだろう。遠慮はいらない、試しにさわってみろよ」  モニは後ずさりしかけたものの、微笑みを浮かべてソファに近づいた。足に手を伸ばし、だが触れるか触れないかのうちに引っ込めた。  その横顔を、刷毛でひと筋なぞった程度の嫌悪の色がよぎる。  ラウルの足はおぞましい、と雄弁に物語るさまにカイルは気づいた。ラウルも見て取った。モニはふたりに心情を悟られたことを察して、後ろめたげに目を泳がせた。  一心同体のように育った幼なじみの間に、埋めがたい溝が生じた。  そのひとコマがカイルの頭にこびりつき、ベッドに入っても目は冴えていく一方だった。モニは寝入る直前までめそめそ泣いていたわりには、折しもイビキをかきはじめた。  闇を透かして隣のベッドを睨み、太平楽な寝顔に枕を投げつけてやりたい衝動に駆られたせつな、どきりとした。  壁を隔てて、すすり泣きが聞こえた。モニ、モニ、と苦悶に満ちた声も併せて。  氷の塊を飲み込んだように、心の奥がしんと冷えた。一転して(はらわた)が煮えくり返った。カイルは音を忍ばせて起きあがると、二台のベッドの間に仁王立ちになった。  出番だ、とモニを叩き起こすべきだろう。ラウルが嘆き悲しんでいる、慰めにいってあげなよ──と。  そのうえで、ふたりきりにしてあげるのが正しい処し方だ。野宿をするのは夜回りの当番で慣れている。中庭の片隅に四阿(あずまや)があった、あそこで夜を明かそう。  上がけからはみ出している肩に、そっと手を載せた。モニ、と囁きかけながら肩を揺すり……一回きりでやめた。  ラウルの足を目の当たりにしたときの反応ぶりでは、モニはなんのかんのと理由をこじつけて彼の元に行くのを拒むかもしれない。そのやりとりがラウルの耳に入ったが最後、彼は打ちひしがれるだろう。  違う、屁理屈をこねて知らんぷりを決め込んでいるのは自分のほうだ。姉の株があがる、その手伝いはしたくない。それが本音だ。  狼の牙をまさぐった。これが力を授けてくれると言ったのは他でもないラウルで、ならば、大好きな幼なじみを助ける力を与えてくれないだろうか。  モニ、と血がしたたるような声が、また聞こえた。  カイルは、うずくまった。おれの名前も呼んでほしい、と浅ましいことを願ってしまう自分にぞっとした。  耳に指で栓をした。胸の小鳥がもらい泣きに、ほろほろと涙をこぼす。

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