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第27話

    第5章 苗木  経済大国の仲間入りを果たしたこの国でクリスマスイルミネーションが一般的になってきたのは、ここ十年のことだ。  もっともGDPも貿易黒字も、カイルには異世界の言語のようになじみのないものだ。それよりデパートの入口にそびえ立つクリスマスツリーと、七色に輝く街路樹に目を奪われどおしだった。  一介の羊飼いにすぎなかった自分が、銀河が地上に出現したように燦爛と輝く街をドライブする。こんな日が訪れるなんて、人生という双六(すごろく)のマス目の文言が書き換えられたようにしか思えない。  老いも若きも男も女も、軽やかな足どりで通りを行き交う。  カイルは後部座席の窓に額を押し当てた。車窓の風景はきらびやかのひと言に尽き、ぽかんと口をあけっぱなしだった。 「すごい、夜景は初めて見た……綺麗だ」 「気をつけろ、垂れてるぞ」  ラウルがカイルの顎に手をあててよだれをぬぐう真似をすると、運転席で笑い声があがった。  カイルとラウル、それから市村と看護助手が乗ってきた病院のワゴン車が駐車場で停まった。街の外れを流れる川の(ほとり)で、これから花火が打ち上げられる。外出の目的は、それだ。  今朝の回診時のことだ。 「病室に閉じこもりっきりというのは不健全きわまりない。ゆえに主治医の権限で命じる。この催しものを見にいきたまえ」  市村が花火大会のチラシを差し出すと、 「車いすでうろつけって言うのか、御免だ」  ラウルは布団を引っかぶった。ところが市村は一枚上手(うわて)で、 「ほう……仕事に付き添いに、と自分のことは二の次の幼なじみをねぎらってやりたいとは思わないのか。きみは存外に器が小さい」   皮肉たっぷりにたたみかける。ラウルが布団をはねのけて起き直ると、市村はカイルに向かって指で丸を作ってみせた。     さて看護助手が後部ドアのかたわらに車いすを広げると、ラウルは手助けを断って自分で乗り移る。カイルはすかさずラウルの下肢を膝かけでくるみ、さらにカイロをたくし込んだ。 「川風が冷たい。マフラーも巻く?」 「草原育ちには、今夜はぽかぽか陽気だ」  実際、厳冬期にはマイナス二十度を記録する日もざらという草原に較べると、十二月になってもコートがいらない首都は常春の楽園のようだ。  四人は車いすを中心にして、堤防遊歩道へとつづくなだらかな坂道を下った。花火見物に向かう人々でごった返しているだろう、という予想は外れて川面(かわも)が見渡せた。  カイルは、ラウルが車いすを操る速度に合わせてゆっくりと歩き、だが時折ぎくりとして立ち止まった。  膝かけが妙に薄っぺらく見える。それは筋肉が落ちるのにともなって足がひと回り細くなったせいだ。強靭な足腰のバネを武器に狼と死闘を繰り広げた日から、巡った季節はたったのふたつ。仮に現在(いま)、狼をけしかけられたら、ラウルはひとたまりもなく嚙み殺されてしまうかもしれない。  血の海に横たわるラウルの姿がありありと目に浮かび、胴震いが走った。カイルは、ゲン直しのおまじないに両手の人差し指を交叉させた。  これから先「ラウルは××ができなくなった」、「今度は○○ができなくなった」と幾度となく思い知らされることになるのだろうか。 「震えて、おまえこそ寒そうだ。ほら」  斜め下からカイロが渡された。それも切なさをかき立てる情景だ。  おれとラウルは、と心の中で呟く。身長がほぼ一緒で、以前は羊乳酒を回し飲みするにしても同じ高さで(さかずき)をやり取りしていた──。  カイルは深呼吸をした。唇をほころばせると、ちっちっと人差し指を振り動かした。 「これは武者震いだ。だって、おれたちに身近な火薬は猟銃の(たま)で、原料が同じ花火はどんなものか想像がつかない。わくわくする」  毛糸の帽子を目深にかぶりなおして、八の字に下がりがちな眉を隠した。それからカイルは後ろ歩きで一行を先導するふうに車いすの前に出た。  陽気にふるまうこと、笑顔を絶やさないこと、それが鉄則だ。

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