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第28話

 その矢先、子どもにぶつかってこられたはずみにアスファルトの継ぎ目にかかとが引っかかった。派手によろけて後ろ向きにひっくり返りそうになったところを、市村に抱きとめられた。 「はしゃぐのは程々にしなさい。そのうち川に落ちて花火どころではなくなってしまう」 「……すみません、ありがとう」 「いや、なかなかの抱き心地で役得だった」  背中に添えられた手が離れていきしな、偶然を装って、だが絶妙の力加減でもって尻たぶを揉んでいった。カイルは、市村が看護助手に指示を与えるさまをきょとんと眺めた。  ややあって猛烈に腹が立ってきた。通勤バスの中で痴漢に遭ったと、くやし涙を流していたモニに共感を覚える。市村も似たようなことをやってのけた。  ちなみに特別病棟づきの看護師によると、脳の難しい部位に腫瘍ができた患者が市村の執刀で社会復帰を果たした例は枚挙に(いとま)がないとのことだ。  では今のひと幕は、名医流の冗談だったのだろうか。だとしても、ちっとも面白くない。    ところで、それは窮余の策だ。対・樹皮症の特別チームに属する皮膚科の医師が、ラウルの足の甲にだめ元でレーザーを照射してみたところ、これには微々たるものだが効果があって、木肌そっくりに裂け目ができていた箇所がふさがった。  ただし焼け石に水だ。目下のところ、正常な皮膚細胞と葉緑体を含む細胞が太腿の中ほどで攻防を繰り広げているような状態だ。  病原である維管束を取り去る目処(めど)は依然として立っていない。  当のラウルは渋面をこしらえても内心うきうきしている様子で、 「花火ってのは、どうせチャチなものなんだろう。寒空にわざわざ見物にきて、都会の人間は物好きぞろいなんだな」  などと悪態をつくはしから白い歯をこぼす。やがて打ち上げ台が設置された対岸で動きがあった。ひと筋の煙が天高くのぼっていくと、歓声があがった。  光の矢が四方八方に弾けて菊花を形作り、夜空を華麗に彩った。濃紺のビロードに金粉をまき散らしたような光景に見蕩れる以前に、カイルは炸裂音に度肝を抜かれた。  咄嗟に指で耳に栓をすると、ラウルも同じことをしていて、顔を見合わせて噴き出した。 「びっくりした。どん! ひゅるひゅるって、鼓膜が破れるかと思った」  草原中に轟く雷鳴と、あたりを青白く染め替える稲光には慣れていても、これはまったくの別物だ。 「豪勢なものだ。モニも来れば……」  と、言いかけてラウルは水面(みなも)を睨んだ。  もっとも花火がつぎつぎと打ち上げられると、気まずい空気も吹き飛ぶ。星と星を結ぶように幅の広いものが枝垂れたかと思えば、大輪の花が絢爛と咲き誇る。  カイルはすっかり魅せられてしまい、爪先立ちになった。鳳凰(ほうおう)が翼を広げたふうに見えるものも、ジグザグに空を駆けのぼって龍のような形を描きだすものも、同じ種類の火薬からできている? 何かカラクリがありそうで到底信じがたい。  首が痛くなっても仰のいたっきりで、花火の輪郭をなぞりつづけた。脱げ落ちた帽子を拾った市村が、やれやれ、と肩をすくめたのにも気づかないほどだった。  と、足が攣った。カイルは腰をかがめてふくらはぎを揉み、その拍子に虹色に照り輝く横顔に目を奪われた。  すっきりした鼻梁、黒曜石のような双眸、意志の強さを表すきりっとした口許。どんな花火より、ラウルのほうが何万倍も綺麗だ。  綺麗? ぽつりと脳裡に浮かんだ言葉を舌の上で転がして、目をしばたたいた。  綺麗とは女性にふさわしい褒め言葉だ、と思う。男らしいラウルには似つかわしくないどころか、うっかり本人の前で洩らしたら、侮辱と受け取られそうだ。

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