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第29話
いつかの夜に唐突に勃ってしまったことといい、どうかしている。カイルは頭をひと振りすると、車いすのかたわらに膝をついた。
ずり落ちた膝かけを太腿にかぶせなおすさいに、発病する以前のような磊落な笑顔を向けられると、無性にときめく。胸の小鳥も震える。
「思い出作りにひと役買ったつもりでいるのか? わたしは偽善者だ……」
市村が破裂音にまぎらせて、日本語で独りごつ。
ひときわ豪華な花が夜空を彩ったのを最後に、打ち上げは終了した。がやがやと家路につく見物客の中でも、カイルとラウルは興奮冷めやらぬ体で頬が紅潮していた。
ひとしきり余韻にひたったあとで、ラウルが車いすの向きを変えた。市村と相対すると右手を差し出した。
「気晴らしになった。感謝する」
「きみたちをここに案内するのにかこつけて、わたしも楽しんだ。礼には及ばない」
市村は、にこりともしないで握手に応じた。そのくせ眼鏡を外してせかせかとレンズを磨くのは、照れ隠しであるようだ。
その市村は今夜は非番で、担当している患者の容体は皆、落ち着いているとのことから、彼の行きつけの茶房に寄った。
そこは茶どころの日本茶を取りそろえている店で、扉を開けたとたん馥郁とした香りに包まれた。
でんでん太鼓に犬張子。こけしに手鞠、と郷土玩具が所狭しと飾られている。カイルは席について早速、〝おきあがりこぼし〟と説明書きにある人形を指で弾いてみた。
ひっくり返るそばから起き上がるさまに、不屈の精神を感じる。病と闘うラウルの姿が重なり、テーブルを挟んで斜め向かいに座る彼を見つめた。
いまだに高揚感に包まれているようで、ラウルは本来のおおらかさを取り戻して饒舌 だ。市村と看護助手に問われるままに、村の暮らしにまつわるこぼれ話を聞かせる。
「刈り取った羊の毛は紡ぐ前に女たちが棒で叩いてやわらかくするんだ。その棒で槍投げごっこをやってるところを親父に見つかって大目玉を食らったな、なあ、カイル」
「『言いだしっぺは俺だ』って、ラウルがかばってくれた。でなきゃ往復ビンタだった」
「なるほど、道理でラウルくんは親分肌のガキ大将という面影を残している」
揶揄する響きにカチンときた。カイルは市村を怒鳴り飛ばしてやろうと深呼吸をして、しかし、そこに四人が注文したものが運ばれてきた。
市村は急須を傾け、ふたつの湯呑に煎茶をつぎ分けると、
「ほぅ、茶柱が立った。吉兆だ、縁起ものはきみが飲みたまえ」
自分のそれとラウルのそれを取り換えた。
カイルは茎茶を頼んであった。湯呑を両手でくるんで、澄んだ若草色に春の草原を思い出す。そして、ひと口飲めば顔がほころぶ。
爽やかでいながらまろやかな味わいで、烏龍茶とも茉莉花茶ともまったく違う。それから、お茶請けに、と竹かごに盛られた落雁の可愛らしいことといったら! クリスマスツリーや雪だるまの精巧なミニチュアだ。
「食べるのがもったいない……」
そう呟くと鼻の奥がつんとなった。日用品を買うにも行商頼みで、不便な点を挙げればキリがないが、それでも草原は大切な故郷 だ。
スイッチひとつで料理を温め治せる器具に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた交通網、それに異国のお茶……等々。別世界を垣間見る機会に恵まれたのは、ある意味、ラウルの犠牲の上に成り立っている。
不意に雪うさぎを模した落雁がぼやけて、カイルは目をしばたたいた。やぁい泣き虫、と自分で自分をせせら笑い、茎茶とともに涙の残片を飲み下した。
ベンガラ格子を境にして喧騒の巷 から切り離されているように、茶房にはゆったりと時間が流れる。女主人がレコードに針を落とすと、こぢんまりとした店内は郷愁を誘う歌声に満たされた。
「うさぎ追いし……日本の唱歌だ」
カイルは、市村がこの国の公用語に歌詞を訳してくれるはしから口ずさんだ。次いでハモニカで何小節か吹いてみると、
「どうだ、カイルは草原一の音楽家だ」
ラウルがふんぞり返り、和気藹々とした雰囲気が漂った。ところで、背に腹は代えられないというやつだ。
ラウルが看護助手に付き添われて化粧室に行くと、カイルは一転してしゃちこばった。
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