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第30話
気むずかし屋の村長と夜回りの当番を務めているときさながら、話の接ぎ穂を失う。落雁をひとつ、つまむ。上品な甘さにうっとりしたのもつかの間、椅子をずらした。
偶然で片づけるには無理がある。一瞬だが、テーブルの下で膝と膝がぴたりとくっついた。
「片割れは置いてきぼりか」
「モニ? あいつは……誘っても来ない」
モニは〝職場のつき合い〟が、ますます増えた。先週など朝帰りをしてカイルと大喧嘩になり、以来、冷戦状態がつづいている。
「ずば抜けて美しい彼女に群がる男は多いはずだ。万一トラブル……もめ事が起きたときは遠慮はいらない、わたしに相談しなさい」
カイルは、もごもごと礼を言った。もうひとつ落雁を食べようかどうしようかと悩み、そこに爆弾を落とされる形になった。
「恋敵が実の姉とは因果な性分だ」
耳を疑い、理知的な顔をまじまじと見つめ返した。
「傍目には丸わかりなのだが案の定、自覚がないとみえる。きみはラウルくんに恋をしている、それも熱烈に」
恋、と鸚鵡返しに繰り返した拍子に、今さらめいて落雁の欠けらが喉につかえた。カイルは咳き込む合間に怒鳴った。
「恋は男と女がするものだ」
「とは限らない。まあ、辺境の村という小さな共同体ではゲイは稀な存在だっただろうから、同性に恋心を抱いても気の迷いで自分を欺いてしまう例は後を絶つまい」
「無知だ、と馬鹿にしてるんだったら殴る」
「男性同士でも恋をし、性交に及ぶ、と一般論を述べているのであって他意はない」
カイルは恥辱を受けたように感じて真っ赤になった。訳知り顔に一発おみまいしてやろうと拳を固めて、だが相手が仮にもラウルの主治医だ。
できるだけ椅子を離して、そっぽを向くにとどめた。
「老婆心からもう一点。姉上をだしぬいてラウルくんとセックス……契るなら今のうちだ。恐らく二ヶ月後が彼のデッドライン……」
「デッド? 外国語でごまかすのは狡い」
咳払いで、はぐらかされた。カイルはなかば椅子を蹴倒しながら市村に向き直り、ところがレンズの奥の双眸に苦悩の色が窺える。そのためにウヤムヤになった。
胃がもたれているような気分に苛まれどおしで、一夜明けても胸の小鳥は羽ばたきをやめない。おかげで仕事中も気が散って、
「人参は乱切りにしろって言っただろうが」
角切りが山盛りになったボウルで頭をはたかれるありさまだ。だいぶ我が家という気がするようになってきた病室に帰る途中も、コウモリの影が〝恋〟という字に見えて目のやり場に困った。
羊の群れが右往左往しているに等しい心理状態では、ただいま、という程度のことでも口ごもってしまうだろう。それでも自分を差招くような窓明かりに、顔がほころぶ。
ラウルとひとつ屋根の下。しみじみとそう思うと躰が宙に浮かぶようで、それでいて足がすくむ。
ペンダントの鎖をたぐり、狼の牙を握りしめた。
ラウルのことは、もちろん好きだ。容貌も人柄もすべてが好きだ。ただし性欲とは無縁の、あくまで純粋な想いだ。
そうだ、市村が何を言おうが知ったこっちゃない。そう自分に言い聞かせても、もやもやしたものが残る。
おかえり、とラウルが笑いかけてくれば指が震えだし、スニーカーの紐をほどくどころか、こんがらかる。おまけにモニは今夜も一向に帰ってこない。
ところで風呂で温まったあとは膝が若干なめらかに曲がるとのことで、ラウルはこのところ一日に三回は湯に浸かる。ただ、自分のことは自分でやりたがる性格だ。
もしも洗い場で転んだら。それを危惧してカイルは毎回、遠回しに持ちかける。背中を流そうか──と。
しかしラウルは浴槽を跨ぐコツを摑んだ、と言い張って譲らない。
だからカイルは万一の場合に備えて浴室のドアの近くで、且つ息をひそめて待機しておくように務めている。
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