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第34話

    第6章 伸長  甘栗の屋台とすれ違ったせつな、おなかが鳴った。カイルはマフラーに顔を埋めながら、通りを見回した。  皿洗いに、野菜の皮むきに、追い使われて賄いにありつきそこねたせいとはいえ、今のみっともない音を誰かに聞かれなかっただろうか。  甘栗屋がハンドルを回すと、香ばしい香りに唾が湧く。ふらふらと吸い寄せられそうになり、それでもくるりと背中を向けて駆けだした。  雑誌大の紙袋を胸にしっかりと抱えなおして。  暮れ残りの空は菫色(すみれいろ)に染まり、店々の軒先に吊るされたランタンに明かりが灯ると、そぞろ歩きを楽しむにふさわしい雰囲気が醸し出される。  だが底冷えがする日とあって、会社員風の男性もネギの束を担いだ老婆も足早に通りすぎる。  カイルも走って病院に帰った。塀を巡らせた特別病棟に出入りするさいは、通用門の脇に設けられた看護師詰め所に寄って名簿に記入する決まりだ。  だからそうすると、 「にこにこしてデートの帰りかい?」  母親世代の看護師にからかわれて、内証、と澄まし返った。それでいて思わせぶりに紙袋を背中に隠す。  中身は四十八色のクレパスセットで、最近、徒然(つれづれ)に絵を描きはじめたラウルは、これを気に入ってくれるだろうか。  草原と海原は、開放的な景色という点で相通じるものがある。そこに惹かれたようで、ラウルが最初にスケッチしたのは病室の窓越しに眺めやる水平線とカモメだった。  そして、それは海に面した首都ならではの風物詩だ。港に停泊中の船が大みそかの午前零時ちょうどに、いっせいに汽笛を鳴らして年が明けた。  村では詰め物をした羊の丸焼きと、ドライフルーツを生地に練り込んだケーキで新年を祝う。  丸焼きはさすがに無理だが、カイルが腕をふるった羊のミートパイの他にも、市村をはじめとする外国出身の医師たちから郷里の味のお裾分けがあった。  ふっくらと艶やかな黒豆は、とりわけ人気のひと品だった。ラウルはひと瓶丸ごと平らげる勢いで……思い出し笑いにほころんだ顔が強ばった。  胸の小鳥がばさばさと羽を広げ、カイルは病室へとつづく小道の途中で立ちすくんだ。来年の正月には、ラウルの躰はどうなっているのだろう……?  市村は最新の画像診断を踏まえて、 「植物の根の木部と師部の間にある分裂組織にあたり、樹木の成長に関係する形成層が肥大化した結果」──云々、と説明した。  たとえばラウルのくるぶしは、もはや木の(こぶ)になり果てた。そのラウルは来週、排泄器が侵蝕される可能性を考慮して、ストーマと呼ばれる排泄口をこしらえるための手術を受ける。  狼の牙を握りしめた。ラウルは治る、元通りの躰になる、と繰り返し唱えてから再び駆けだす。  その矢先、病室のほうからやってくるモニと出くわした。 「旅支度をして、村に帰る気になったのか」  スーツケースに顎をしゃくると、バツが悪げな表情はかき消えて、モニは胸を張った。 「あたし、芸能事務所に誘われたの。アイスクリーム屋にくすぶってるのは宝の持ち腐れだって。事務所が用意してくれたマンションに住むわ」 「藪から棒に、なんの夢物語だ」 「痛い、放して!」  カイルはモニの腕をむずと摑み、中庭の片隅に引きずっていった。四阿(あずまや)を舞台に、石造りのテーブルを挟んで対峙すると、この双子の象徴ともいえる蜂蜜色の髪が、そろってなびいた。 「芸能事務所にマンション? 騙されて食い物にされるに決まってる。目を覚ましてくれよ、モニ……いや、姉さん。だいたいラウルのことはどうでもいいのか。なんのために首都に来たのか忘れたのか」 「ラウルに縛られて、みすみすチャンスを逃したくないの。あたしは女優になる!」  カイルと瓜二つで、ただしめきめきと化粧が上達した顔が嫌悪感をあらわにゆがむ。 「そばに来られると伝染(うつ)りそうで、もう我慢の限界」    吐き捨てるようにそう言うと、立てて置いたスーツケースに腰かけた。 「蛇の鱗みたいなのが足にびっしり生えて、ぞっとする。顔を見るのも、いや、同じ空気を吸うのも、いや。しょうがないでしょ」 「もういっぺん言ってみろ……!」    カイルはテーブルを飛び越えた。すさまじい剣幕でモニに迫る。たとえ姉でも、ラウルを侮辱したからには平謝りに謝っても赦さない。そうだ、万死に値する。

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