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第35話
ふてくされたように睨 めあげられて、拳を固める。顔の形が変わったあとで泣いて詫びても遅い。
射殺す目つきでモニを睨み返したところに嫌みったらしい拍手を浴び、眦 をつりあげて振り返ると、
「派手にやり合っているな。病院中に丸聞こえだ」
市村が下ろした手を白衣のポケットに入れながら、歩み寄ってきた。数歩後ろでアイリーン・リー医師が曖昧に微笑んだ。
「じゃあ、あたし行くから」
「話は終わってない、待てよ!」
モニはスーツケースを斜めに倒して持ち手を握りなおし、カイルにたたらを踏ませると、その隙に走り去る。
市村が目配せをしたのを受けて、アイリーン・リーが後を追う。
「待てって言ってるだろ!」
怒鳴りざま駆けだしたとたん、市村に行く手を阻まれた。かたわらをすり抜けようとすれば、市村も同じ方向にずれる。そうこうしているうちに足音は遠のいた。
「先ほどの会話の様子では水掛け論に終わるのは目に見えている。お互い冷静になったうえで、あらためて話し合ったほうが賢明だ」
「あいつ、ラウルをくそみそにけなして、ひどい。女優だって? なにさまだ!」
マフラーをむしり取り、かなぐり捨てた。毛を逆立てて唸る猫のように肩が激しく上下し、その肩をぽんと叩かれた。
「彼女のように華がある女性は遅かれ早かれ芸能界から誘いがきていただろう。リー先生が彼女から詳しく話を聞いてくる。きちんとしたプロダクションに所属するのであれば反対する理由はあるまい」
「反対する理由? あいつは都会に憧れてた。ラウルの病気を利用して夢を叶えて、今度はいかがわしい世界に飛び込むつもりなんだ。二重の裏切りだ、絶対に許さな……」
大きな欠伸に遮られた。身ぶりで無作法をとがめると、市村は眼鏡を外して目頭を揉む。
「失敬、ゆうべは当直で寝不足だ。しかし、ものは考えようで、きみのとっては好都合な展開といえるな。何しろ……」
にやりと嗤って締めくくる。
「労せずして恋敵が戦線離脱というわけだ」
カイルは、むっつりとマフラーを巻きなおした。
草原の古い言葉でカイルは太陽、モニは大地を意味する。支え合って生きていってほしい、との願いを込めて両親が名付けてくれた。
だが大地のほうは、太陽の助けはもういらないらしい。
唐突に躰の一部をもぎ取られたような心細さに襲われた。ただしそれは一瞬のことで、モニに憎しみさえ感じる。
カイルは腹立ちまぎれにベンチを蹴った。爪先がじんと痺れ、片足立ちで飛び跳ねながらわめき散らした。
「花火大会の夜に先生におかしなことを言われてから、暗示にかかったみたいに頭の中がいっぱいだ。おっ、男同士のせいこ……」
〝浴室の出来事〟と題した短編映画が、四阿の天井というスクリーンに映し出されているように、脳裡に鮮やかに浮かぶ。
暗示、と呟いて市村は顎をさすった。真紅に染まった顔に一瞥をくれるとピンとくるものがあったようで、鹿爪らしげに眼鏡を押しあげた。
墓穴を掘った、とカイルは舌打ちをした。市村は〝暗示〟に関する具体的な内容を穿鑿してきたあげく、おれをからかうに違いない。
パステルの包みを胸に抱くと、ぺこりと頭を下げた。
そして、そのまま立ち去ろうとしたところで逡巡する。肩越しに市村を振り返ったものの、訊きづらいどころの騒ぎではない。
唇を舐めて湿らせてから、努めてさらりと切り出した。
「あの……男同士がどうやるのか知りたい」
語尾は消え入りそうになり、レンズの奥の目が細められた。相手はCTスキャンの画像から血栓ができている部位を特定してのける脳外科医で、その要領で心の中を見透かされるように感じる。
暮れ果てるとともにいちだんと冷え込んできて、なのに額に汗がにじむ。カイルは、しどろもどろになりながら言いつのった。
「単なる好奇心、深い意味はない」
それを聞いて市村は噴き出した。
「かねがね一途さに感心していたが、きみの献身ぶりには頭が下がる」
皮肉っているのだろうか、とカイルは身構えた。そこに慈愛に満ちた眼差しを向けられて面食らい、すると市村が腕時計に視線を落とした。
「急患がなければあと三十分ほどであがりだ。口で説明しても理解できまい、実地研修といこう。のちほど、わたしの自宅を訪ねてきなさい」
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