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第36話

   病棟群の裏手に三棟、職員住宅が縦に並んで建っている。市村の住まいは、いちばん南寄りの棟の最上階だという。  無我夢中だったのはエントランスをくぐるまでで、ロビーを横切っている間に心臓がせり上がってくるようだった。カイルはおぼつかない足どりでエレベータに乗り、廊下を進んだ。  カイルを出迎えた市村はワイシャツの衿をゆるめていて、表情も普段よりやわらかい。  リビングルームに通され、カイルは勧められたソファにちょこんと座った。市村はきれい好きとみえて整理整頓が行き届き、女っ気はない。家族の写真一枚、飾られていない。  そういえば市村が既婚者なのか独り身なのか、興味がなくて知りたいとも思わなかった。異国の地で独り暮らし。淋しくはないのだろうか、  取り留めもなくそういうことを考えていると、特大のソーセージを盛りつけた皿がテーブルの上に出現した。 「夕飯をごちそうしてくれるんだ……くれるんですか。でも、おれ、帰ってラウルと一緒に食べる」 「違う。これをペニスに見立てて、しゃぶる練習をするのが第一段階だ」  あっさりと言われて、のけ反った。 「しゃ、しゃぶるって……あれを? 嘘つき、おれが無知だからって適当なことほざくな」 「口淫は基本中の基本だ。ベッドの中で手とり足とり教えるほうが簡単だが、きみは死に物狂いになって抵抗するだろうし、純潔を(けが)す趣味はない」    一旦口をつぐみ、玄関を指し示した。 「怖じ気づいたのか、では帰りなさい」  カイルはかぶりを振り、ソーセージを見つめた。ペニスをしゃぶるのが基本? そんな冗談を真に受けて実行に移したとたん、嘲笑を浴びるに決まっている。  しかし教えを請うた以上、市村を信じるしかない。そうだ、挑戦してもみないうちから降参するようでは男がすたる。  意を決して皿を引き寄せた。ソーセージをつまみあげたせつな記憶が甦り、目縁に紅を()く。  ラウルのあれは、これの倍くらい太くてぷりぷりしていて、艶やかな肌色をしていた……。  目をつぶり、ソーセージの端に唇を寄せていく。恐るおそる舌を伸ばし、ちょんと舐めて引っ込めた。  まっすぐなこちらに対してペニスは微妙に湾曲している、というぐあいに同じ棒状でもまったくの別物だ。それでも練習台には、うってつけかもしれない。  市村が安楽椅子に腰かけた。肘かけに頬杖をつくと、鉗子、と看護師に命じるような口ぶりで助言を与える。 「唇で亀頭をくすぐるように、且つゆるゆると口に含んでいくと、たいていの場合ペニスがみなぎってくるものだ。ここで重要なのはラウルくん……もとい仮にXと呼ぶ相手を焦らして期待を高めることにある」    神妙にうなずき、ペニスに置き換えるとこの線が裏の筋にあたる、と想定した範囲を縦についばんでみた。  この部分を刺激すると、むくむくと頭をもたげていったっけ。ハモニカを吹く体で唇を横にずらしていき、ついに銜えようとしたせつな、 「私見だが、あらかじめ口の中を唾液で満たしておくと、ぬるぬるして気持ちよさが倍増する」  そう言い足してくる。早速ウガイをするときのように、くちゅくちゅと頬の内側の粘膜を蠢かすと、口許に視線を感じた。  案の定、しゃぶる云々はデマカセで、折を見て種を明かして、からかうつもりなのだろうか。カイルは上目をつかって様子を窺い、真剣な面持ちを見いだして睫毛を伏せた。  当直明けで疲れているにもかかわらず、いわば教官の役を引き受けてくれた人を疑うなんて失礼だ。まじめにやろう、とソーセージを握りなおした。  唾液をからめるように心がけながら、中ほどまで銜えた。 「吸う、甘咬みする、ほうきで掃くように舌を這わせる……等々。想像力を働かせ、メリハリをつけて相手を煽る」  と、蘊蓄(うんちく)を傾けるあたり、市村は口淫という分野に造詣が深いのだろうか。自分に習得できるのか、とカイルは心配になった。  だが、羊の毛刈りにしても上達への近道は場数を踏むことだった。実際にラウルのあれをしゃぶる機会が巡ってこないともかぎらないから、そのときにまごつかなくてもすむように、しっかり練習を積んでいこう。

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