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第39話

 羊飼いの通過儀礼に、自らの手で(うび)った羊の(あらわた)を引きずり出すというものがあった。  その儀式に臨んだときに勝るとも劣らない衝撃! (なか)をこねくり返されるとペニスに影響が及ぶなんて、まさしく人体の神秘だ。  缶を傾けるさまを、ちらちらと窺う。スラックスの前は平らかだが、世話になりっぱなしでは心苦しい。 「先生の……してあげよっか。えっと、手で、授業料に」 「奇特な申し出だが見返りは求めていない。気持ちだけもらっておこう」  眼鏡を外し、つるを持ってひらひらと振ってみせると、ビールを呷った。背もたれに上体をあずけ、ゲップをするのにまぎらせてため息をつく。 「特別チームを任されて四ヶ月近くが経つというのに、対症療法さえままならないザマだ。樹皮症か……ラウルくんのようなレアな症例に遭遇すると、医者にできることは限られるとつくづく痛感する」  などと、空き缶をへこませながら愚痴をこぼすが、日本語とあってカイルにはチンプンカンプンだ。  変異した皮下組織を採取して、培養して、維管束を撲滅すべく日夜さまざまな試みがなされているものの、成果を挙げるには程遠い。市村は脂が浮いた顔をひとこすりすると、なおも日本語で言葉を継ぐ。 「彼を恋い慕う青年のたっての願いだ。セックスの作法を教えるくらい、お安い御用だ」  憐れみが混じった眼差しをカイルに向けて締めくくった。眼鏡をかけなおすと怜悧な医師の表情(かお)に戻り、玄関を指さす。 「射精しそこねて生殺しの状態か。帰って復習しがてら後ろをいじりつつ手淫に励むといい。そうだ、必需品を土産にあげよう」    ブルゾンのポケットにねじ込まれたものは、潤滑剤のチューブだ。減った分の中身は、あそこに塗り込められた……。  手ほどきを受けているさなかは無我夢中で、痴態を演じている自分を客観視する余裕など欠けらもなかった。今さめいて羞恥心に苛まれると指が小刻みに震え、もたもたとスニーカーの紐を結び終えた。  カイルはことさら深々と頭を下げて、ほとんど叫ぶように(いとま)を告げた。 「おっ、おじゃましました!」  哄笑に送られて職員住宅を後にした。病院内の主要な施設を結ぶ循環バスが走っているほど、敷地は広い。白い息が棚引くなか、第二の我が家のような病室めざして、ひた走りに走る。  帰り着き、居間に駆け込んだとたん、胸の小鳥が自分自身を(くちばし)で激しくつつくようだった。  ラウルは車いすにつくねんと腰かけて、紫煙をくゆらしていた。かつて青空を映してきらめいていた瞳は、干上がった池のように虚ろだ。  長く伸びた灰が指を焦がし、だが熱さを感じたふうもなく、機械的にフィルターを口に運ぶ。 「ラウル……」  壁に話しかけているように反応がない。 「ラウル、ごめん。遅くなって、ごめん」  カイルは底知れない哀しみを漂わせる後ろ姿に、かける言葉を失った。煙草を指から抜き取ると、ラウルはようやく現実にピントが合ったように振り向いた。 「モニが、出ていった……」  うん、と喉の奥で答えた。 「おまえも遠慮はいらない。俺を見捨てて、どこにでも好きなところへ行け」  それは、モニがここで暮らしていたという痕跡だ。ラウルは、彼女が置き忘れていった髪飾りを、かつて彼が贈ったそれを物憂げにもてあそぶ。 「行かない。誓ってラウルのそばを離れない。ずっとそばにいる、ずっと、ずっと……」  車いすのかたわらにひざまずき、めっきり嵩が減った膝に頭をもたせかけた。 「何が起きても、ずっと一緒だ……」  肘かけから垂れ下がる手を捧げ持ち、指先にくちづけた。肉が()げた頬に淡い微笑が浮かぶまで、ずっと、と繰り返した。  両足の甲は、完全に維管束に食い荒らされてしまった。重なり合う根のようにねじくれて、樹皮症が猖獗(しょうけつ)をきわめるさまを物語っていた。

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