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第40話

    第7章 若木  海に舞う粉雪は儚くて、そのぶん美しさが際立つ。カイルは雪片を掌で受け止めると、かじかんだ指に息を吹きかけた。  竿に干しっぱなしのシーツが北風にはためき、胴震いがしても、解放感を味わえるというおまけがつくから屋上で作業をするのを好んでいた。  カイルの右側には空になった段ボールがひと箱、左側のボウルには筋を取り終えたサヤインゲンが山盛りになっていた。休憩時間返上でいそしんだ甲斐があって、料理人に雷を落とされずにすみそうだ。  マフラーを鼻の上まで引きあげ、しずしずと入港するタンカーをひとしきり眺めた。  社員食堂で働きはじめて四ヶ月がすぎた。相変わらずこき使われる毎日だが、給料の何割かをラウルの家族への仕送りに回せる。それが励みだ。   大きく伸びをした。白い歯をこぼれたのもつかのま、花模様の便箋が脳裡をよぎるとサヤインゲンを蹴散らしたくなった。  昨日、モニから手紙が届いた。演技を学ぶ塾に通っている、だの、オーディションを受けた、だのと近況が綴られていた。  たくましいやつ、とラウルは苦笑した。カイルは即座に手紙を破り捨てた。  特別な出来事といえばその程度で、芝居でいえば幕間のように穏やかな日々がつづく。あちらこちらの店先に、牡丹の花をかたどった蠟燭が並びはじめた。  各家の玄関先で、その蠟燭を点して幸福を祈願するのが旧正月の伝統とのことで、首都全体がやわらかな光に包まれるという。  それは草原では決して見られない光景だ。ラウルを誘い、外出許可をとって見物にいこうか。名案だ、と相好を崩しながら足下に散らばった筋を拾い集めた。  そのとき、塔屋のドアが開いた。  シーツに遮られて姿は見えないが、話し声がヒントになって、屋上にやってきたふたり組の男性が誰と誰なのかすぐにわかった。  甲高い声の(ぬし)崔浩然(ツイハオラン)。かたやフランス語のなまりがあるほうはサミュエル・モロー。ラウルの主治医たちだ。  挨拶してこよう。カイルはエプロンを外して髪を撫でつけた。椅子代わりの木箱から腰を浮かせ、その直後、液体窒素を浴びせかけられたように凍りついた。 「若い身空で気の毒に。木の皮もどきが男性器にまで繁殖して、立ちションさえできなくなるのは避けられそうにないとか。僕が彼の立場なら、将来を悲観して自殺するかもしれません」    サミュエル・モローが嘆くと、 「同感だね。立ちションができる、できないはアイデンティティにかかわる大問題だからね。いずれにしても〝生きた標本〟の彼には医学の発展に大いに貢献してもらって、ついでに我々に名声をもたらしてもらう、と」    崔が腹黒いところをみせた。ふたりは、ひとしきり女性看護師がらみの噂話に花を咲かせてから立ち去った。  足音が遠のいたあとも、カイルはしばらくのあいだ固まっていた。ただ、いつの間にかボウルが裏返しになっていて、サヤインゲンが散乱するなかに尻餅をついた。  耳鳴りがして考えがまとまらない。俎上に載せられた〝彼〟とは、まさかラウル……?  生まれて初めて飛行機に乗ったときの何倍も、平衡感覚がおかしい。コンクリートの床も木箱も泡雪も何重にもぶれて見えて、仰向けに倒れた。サヤインゲンが潰れて、青臭い匂いをまき散らす。  おれが無教養だから? それとも想像力が欠如しているから? 少し考えればわかったことだ。  違う、内心そうなることを恐れていて、考えないようにしてきた。維管束が動脈を足場に這いのぼっていけば早晩、内臓にたどり着く。最初の標的は泌尿器──。  声にならない嗚咽で喉が軋む。歩き、走って行きたい場所に行く自由を失った。愛する女性(ひと)と家庭を築くという、ささやかな夢もついえた。  神さま、もう十分ラウルをいたぶったよな? これ以上、ラウルから何かを奪わないでくれ。奪いたければ代わりにおれの目玉をくり貫いてくれ。手足を引きちぎってくれ……!  その夜、カイルは念入りに躰を洗った。狼の牙で心臓の上に〝ラウル〟と刻みつけて勇気を奮い起こす。  そしてラウルの寝室を(おとな)う。

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