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第46話

    第8章 潅水  水面(いなも)が白くけぶる。街の中心を駘蕩(たいとう)と流れる川の両岸に数百本の枝垂れ柳が植わっていて、枝々がなよやかにそよぐ。  綿毛に似た花が咲きこぼれ、あたり一帯を純白に染め替えるさまは、幻想美にあふれていた。  カイルは屋台で甜茶を買うと、岸辺につづく石段に腰かけた。草原流の炒飯をつくるのに欠かせない香辛料を、市場に買いに行った帰りだ。  そよ吹く風が蜂蜜色の髪と戯れるたびに見え隠れする頬は、腫れて赤い。  ゆうべ、ラウルにぶたれた。新品の靴下の値札を取っていたのが、あてつけがましい──と逆鱗に触れたせいだ。  ラウルは悪鬼のような形相で、手が届く範囲にあるものをつぎつぎと投げつけてきた。樹皮症に冒される前は底抜けにおおらかだったラウルが、カイルが平謝りに謝っても腹の虫がおさまらない様子で、しまいには拳をふるった。  カイルは気だるげに頬をさすった。村一番の働き者だったラウルが、今では一日の大半をベッドに縛りつけられている。  憤懣やるかたないことは容易に察しがつき、彼の胸中を推し量ると殴られるくらい屁でもない、と思う。  ただでさえ大腸と膀胱の内容物を体外に排出するための、いわばパイプを造設する手術を受けて以来、 「俺はもう男じゃない、人間ですらない」  ラウルはふた言目にはそう言って嗤う。  甜茶をすすると歯茎にしみた。強いて飲み干すうちに表情が曇る。  ──ぶち込まれたいときは市村に頼め……。  などと嘲罵を浴びせかけられたさいには、心臓に鉤爪が食い込んだように感じた。やむにやまれず手ほどきをお願いしたのが例外中の例外で、ラウル以外の男にうがたれるなんて冗談じゃない。想像するだに虫唾が走る。  川に小石を弾き入れた。波紋が広がり、それはラウルの感情の振れ幅に翻弄される自分の姿と重なる。  だが、元を糺せば拝み倒す形でそばに置いてもらっている身だ。性欲の捌け口という存在意義を失った代わりにラウルを精神面で支えていけるように、もっともっと強くなろう。  時折、昔通りのほがらかな笑顔を見せてくれれば十分だ。  とはいうものの、どれだけラウルに尽くしても独り相撲という感がある。彼の心の中にはいまだにモニの面影が息づいている、と折に触れて思い知らされる。  柳から柳に張り渡されたロープから、提灯が下がっている。いっせいに()が入り、そぞろ歩く恋人たちをほんのりと照らし出すと、つい羨望の眼差しを向けてしまう。  とぼとぼと病院に帰ると、ラウルの母親から小包が届いていた。幻臭にすぎないが、草原の香りに鼻孔をくすぐられた気がした瞬間、ぽろりとこぼれた。 「帰りたい……」  日向臭い羊に囲まれてすごす日々が、言葉では言い表せないほど恋しい。  狼の牙を握りしめた。ことさら背筋を伸ばして、通用門と病室を結ぶ小道を歩く。近い将来、絶対に病が癒えたラウルと一緒に村に帰る。  市村が看護師をともなって回診に訪れていたところに行き合わせた。玄関の扉を開けたとたん、険悪な空気が充満しているように感じられて、ラウルの寝室にそっと躰をすべり込ませた。  敵意をむき出しに市村を睨みつけるラウルに対して、市村のほうは泰然とタブレットに触れる。ディスプレイに映し出されたものは、ラウルの下肢をCTスキャンで撮影した最新の画像だ。  動脈を中心に白っぽい筋が四方八方に広がって、(かいこ)が繭を紡ぐところを思わせる。その筋は植物でいえば主根および側根と根毛にあたり、ラウルの下半身が幹へと化しゆく、その過程をたどっていることを物語る。 「カイル、傑作だ。ここにおわす名医さまが、俺の頭に電極を埋め込みたいとおっしゃる」 「脳内の電気信号を用いてパソコンを操作することを視野に入れて措置を講じておきたい、とラウルくんに説明していたところだ。これは万一、維管束が音声器官に達するという事態を想定してのことだ。ALS──筋萎縮性側索硬化症の患者の声帯の筋力が衰えたさいに意思の疎通を図るにはこの施術が有効で、手前味噌だがわたしが執刀するかぎり必ず成功する」 「万一ねえ。きれい事を抜かすな、既定路線だろうが。頭のつぎはどこを切り刻んで、俺をサイボーグに改造する気だ」    へらへらと嗤うと、仰向けに横たわったままガウンをはだけた。心臓か、胃袋か、と胸元から鳩尾にかけての線を嫌みったらしく撫でまわす。  それからヘッドボードにすがってずりあがったものの、もはや下肢のすべての関節がゆがみ、自力で起き直ることは困難だ。いきおい、闇雲に足をばたつかせた拍子に床に転げ落ちそうになった。

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