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第47話

「危ない、じっとして!」  カイルはベッドに駆け寄り、ラウルを抱きとめた。背中に添えた手は瞬時にむしり取られ、逆に力いっぱい突きのけられた。 「どいつもこいつも俺を虚仮(こけ)にしやがって。うんざりだ、出ていけ」  カイルはやむをえず、市村たちを見送りがてらポーチに出た。市村は話があるとみえて、看護師を帰すと扉に寄りかかった。  鎌のような三日月が青白く輝くもとで向かい合った。白衣の衿元から覗くネクタイは若草色で、カイルはそれに季節の移ろいを感じて唇を嚙みしめた。  最高の治療を受けられる、というこの病院の門を叩いたのは十月のことで、あのころのラウルはまだ自分の足で歩いていた──。  嗚咽が静寂を破った。隣の病室を見やると、女性が軒下で(はな)をすすっている。彼女の夫が末期の癌で、今夜あたりが峠だと小耳に挟んだ。  同様の理由で入院患者は入れ替わり、ラウルはいつしか特別病棟の古株だ。  と、指の背が頬にあてがわれ、腫れぐあいを調べるようになぞり下ろした。 「誰の仕業か訊ねても、きみは『ぶつけた』と言ってごまかすだろうから、あえて訊くまい。湿布が入り用なら取りにきなさい」    カイルが首を横に振ると、市村は本題に入る合図のように咳払いをした。 「忙しさに取りまぎれて訊きそびれていた。例の初心者向けの講座は役に立ったのか」   講座、とカイルは呟き、何秒か遅れて真っ赤になった。事の顛末はカクカクシカジカ、と報告する義務はない。  ゆえに頬かむりを決め込んでいたのだが、折りしも眼鏡を押しあげた指が秘処を暴き、ほぐし方を伝授してくれたのだ。 「そっ、その節はお世話になりました。あとはご想像にお任せします!」  ポーチの(きわ)まで飛びのき、からくも踏みとどまると、手首を摑まれて引き戻された。 「きみは純真で可愛い。罪作りな子だ」  日本語に切り替えて話しかけてくるとともに須臾(しゅゆ)、指に指をからめてきた。カイルが身をもぎ離すとこの国の公用語に戻して言葉を継ぐ。 「真皮にレーザーを照射すれば一時的に樹皮化のスピードがにぶる。これは実証ずみだ」 「……気休め程度じゃ駄目なんだ。完全に治らなきゃ駄目なんだ」 「重々承知だが、残念ながらイタチごっこと言わざるをえない」  羽虫が誘蛾灯に突進して、焼かれて落ちた。 「維管束が動脈にはびこっているのが厄介な点で、理論上は全身の動脈を人工のものに交換すれば病を克服できる。だが条件を満たす人工血管が実用にこぎ着けるには至らず、それ以前に毛細血管まで含めると人体に張り巡らされた血管の総延長は地球二周半──およそ十万キロに及ぶ、その中から動脈のみを実を取り換えるなど神の領域だ」    淡々とした話しぶりにくやしさがにじむ述懐は、事実上の敗北宣言だ。ぐんにゃりと視界がゆがみ、カイルはへたり込んだ。  一転して全身の血が沸騰するほどの激情に駆られて、市村に躍りかかった。 「最善を尽くすって啖呵を切ったくせにラウルを見捨てるんだ、嘘つき、人でなし!」  胸倉を摑み、微動だにしない躰を前後左右に揺さぶる。ネクタイがよじれて白衣が皺くちゃになっても、市村はなすがままでいた。ただ、レンズの奥の双眸は静かな怒りに燃えていた。 「後手に回りどおしで慙愧(ざんき)に堪えない。だが、患者とともに闘い抜くのが医師の務めだ」    白衣から手が離れるのを待って、あらためてきっぱりと言い切る。 「匙を投げられたと思った……」  かすれ声をしぼりだすと膝がくだけて、うずくまった。その横で、羽虫が焦げた(はね)を震わせてなおも飛び立とうとしている。  希望を捨てるな、とカイルは自分を叱り飛ばした。市村ににじり寄っていくと、ポーチに(ぬか)ずいて切々と訴えた。 「お願いです、お願いします。ラウルを助けて、助けてください……そうだ!」    にわかに目を輝かせ、額をつついてみせた。 「おれの躰にラウルの脳みそを移植すれば問題解決だ。おれ、丈夫なのが取り柄だし、樹皮症にかかってないから、ラウルはまた自由に動けるようになる。あしたとは言わずに今すぐ移し替えてください!」 「その手の突飛な手術は、漫画や小説といった虚構の世界においてのみ可能だ」  にべもない返事に胸の小鳥が羽をたたむ。カイルはふらりと立ちあがり、 「ラウルが呼んでるかも、行かなきゃ……邪魔するな」    扉の前に立ちふさがる市村を()めあげた。 「本棟の喫茶室につき合いなさい。顔色が悪いきみは糖分、わたしはカフェインを摂取する必要がある」 「ラウルの笑顔が一番の栄養分なんだ」    透き通るような微笑みが心の琴線に触れた、といったところか。鬼の目にも涙、と市村は日本語で独りごちると、目をしばたたきながら横にずれた。

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