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第48話

   カイルは、すかさずラウルの寝室に駆け戻った。  市村とヤッてきたのか。そう皮肉られるかもしれないと覚悟していたのだが、目に飛び込んできたものは今にも笑みくずれる気配がある仏頂面だ。  カイルは密かに胸を撫で下ろした。ベッドは電動式で、リモコンの扱いにだいぶ慣れた。マットレスの上半分が斜め四十五度。それがラウルが寄りかかりやすい角度で、厳密に調節する。  それから外づけの排泄器に相当する袋──ストーマを洗ってくると、台所に行った。  ラウルがストーマを元通り脇腹にはめ込む間は、席を外しておくこと。暗黙の了解だ。牛乳で紅茶を煮出し、グローブとナツメグの粉末で味を調える。  ラウルがガウンの腰紐を結び終えたころを見計らって、ふたつのカップに紅茶をつぎ分ける。ベッドの中と、そのかたわらに置いた椅子にそれぞれ座り、故郷の味を楽しんだ。  そしてカイルは、枕元のスケッチブックをおずおずと指さした。 「見たいな、見てもいい」 「俺とおまえの仲だ。見物料はいらない」  といった軽口をたたくあたり、いつになく機嫌がいいようだ。早速、いそいそと表紙を開いて目を(みは)った。  ページをめくるたびに、なつかしい情景が現れる。  男たちが総出で給水塔のタンクを洗いあげる場面。晴れ着をまとった女たちが優婉に舞う祭りの日のひとコマ。投げ縄の腕前を競う子どもたち。追いかけっこを楽しむ仔羊に、朝靄にけぶる湖……。  記憶を頼りに描いたものとは思えないほど、細部にわたって描写されている。しかも画材はうれしいことに、カイルが贈ったパステルだ。 「絵心があったんだねえ。画家になれるよ」 「そういう過大評価を身びいきって言うんだ。けど、個展を開催してみろ。絵描きの躰が躰なだけに野次馬が殺到すること請け合いだ」   せせら笑いで締めくくると、ガウンの裾をたくしあげる。むごたらしく変形した下肢をひと撫でしながら紅茶をすすり、カイルに居たたまれない思いを味わわせておいて、おもむろに枕の下から平べったくて四角いものを取り出した。  そして、それでカイルの頭をぽんと叩く。  おそらく看護助手に頼んで材料を買ってきてもらったのだろう。浮き彫りをほどこした手製の(がく)に、パステル画が収められていた。  画題は、羊に慕い寄られて白い歯をこぼすカイルだ。 「よその国じゃ、ハッピー・バースディって言うらしいな。チンケなものだが誕生日の祝いだ」  カイルはカラクリ人形のように、こくこくとうなずいた。ラウルが、おれの誕生日を憶えていてくれた? 自分のことで手一杯に違いないのに?  勲章を授与されたような手つきで額を受け取り、大切に胸に抱いた。  こっそり贈り物を用意してくれているなんて心憎い演出……いいや、うれしい騙し討ちだ。チンケなものどころか、宝物が増えた。 「すごい……一生、大事にする」  うれし涙を指でぬぐいながら笑いかけると、ラウルはむっつりと紅茶を飲み干した。ひと呼吸おいて案じ顔を向けてくると、細い(おとがい)を掬った。 「おまえに甘えるに事欠いて、殴るなど卑怯者のやることだ。痛かったな、ごめんな」    そっと頬に添えられた手を逆に捧げ持って、頬ずりをした。喉をくすぐられて、不精髭をつまんで返すと、頭を抱え込まれてツムジを拳でぐりぐりされた。  乳飲み子のころから年がら年中、こんなふうにふざけ合ってきたものだ。だが一線を越える以前とは異なり、肉体的な接触は時として別の意味を持つ。  躰の芯が甘やかに疼きだす。もっとも生殖器を含めて腰から下が樹皮に覆われてしまった現在(いま)は、どんなにラウルを欲したところで番う(すべ)がないのだが。 「……抱きついたいと言ったら、怒る?」  じろりと睨んできつつも広げられた腕の中に身をあずけると、顔が胸に埋もれる形に抱き寄せられた。  この世でいっとう(かぐわ)しいと思う、ラウルの香りに包まれて目をつぶる。寄り添い、互いの温もりを分かち合う歓びは何ものにも代えがたい。  ふと考える。久しくなんの音沙汰もないが、同じく二十一歳になったモニは、どこで誰に誕生日を祝ってもらっているのだろう。  頭をひと振りして、ガウンの衿を鼻でかき分けた。たとえモニが絢爛豪華な祝宴を催してもらっても、羨ましくもなんともない。  大好きな幼なじみが抱きしめてくれるおれのほうが、何倍も、何百倍も幸せだ……。

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