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第51話

 手すりが平行に設置されている場所に限るとはいえ、ラウルは両足をそろえて飛び跳ねるふうな形で動き回る。青白くむくんだ顔に健康的な赤みがさすよう、たまには日光浴をしたほうがいい。  植物の生長に欠かせないもののひとつが太陽の光、即ち樹皮症に栄養を摂らせる気だな、と嫌味を言われそうだが、陽だまりに安らえば少しは気が晴れるはず。  本棟の屋上にあがって海原を見晴るかし、写生をするのも一興だ。  そうだ、心を鬼にしてラウルを庭につれ出そう。カイルは病院行きのバスに揺られながら決意を固め、帰り着くとすぐに実行に移した。  カイルがラウルの上半身を、看護助手が下半身を持ちあげて特別仕様の車いすに横たえる。そして玄関に向けて車いすを押しはじめたとたん、ラウルは転がり落ちる勢いで上体を波打たせた。 「ふざけるな、どこにも行かねぇぞ! 病棟中の見世物になるのは御免だ!」 「大丈夫。他の病室の患者さんはみんな昼寝の時間で、誰とも会いっこない」    三十分ほど中庭を貸し切らせてほしい。その旨、カイルが特別病棟の各病室を訪ねてお願いして回った。  玄関の扉を開け放つと、ラウルは朝日が昇るなかで棺桶を暴かれた吸血鬼のように顔を両手で覆った。車輪が敷居を越えた瞬間、しゃかりきになってもがきはじめた。 「戻れ。聞こえなかったのか、戻れといったら戻れ!」    カイルは、そ知らぬふりでハンドルを握りなおした。小道につづくなだらかなスロープに車いすを進める。  うららかで、まさに散歩日和だ。  スプリンクラーが高く低く水を噴きあげるたびに芝生の上に虹が架かり、そこに花壇を彩る赤や青が加わって、中庭全体が印象派の絵画のような景観を成す。野鳥がさえずると、カモメが張り合うように港のほうで鳴き交わす。  かけ合った甲斐があって、中庭に面したすべての窓は閉ざされていて〝見世物になる〟云々はやはり杞憂にすぎない。  さしずめ殻の中に引っ込んだカタツムリだ。神経を研ぎ澄ませて周囲の様子を窺い、安全だ、と判断したとみえる。ラウルが頭からすっぽりとかぶっていた毛布をずらして、きょろきょろとあたりを見回した。  ところが陽光を浴びると産毛がすべて新芽に変わる、とでもいうように再び毛布にもぐり込んだ。 「ラウル、風が気持ちいいよ。出てきなよ」 「うるせぇ、一生恨むからな」    ラウルは己の肉体を恥じる気持ちが強いうえに、日中に出歩くことじたい久しぶりだ。それゆえ怖じるものがあるようで、恐怖心をねじ伏せて毛布をめくるまで、かなりの時間がかかった。  目許があらわになるとすぐに手で庇を作り、その恰好で固まりつづけること数分、肚をくくったとみえて毛布を臍までずり下ろした。  そして肘かけにすがって、(あた)うかぎり上体を起こす。  それから大きく伸びをした。ふくよかな土の香りも、髪が風にそよぐ感覚も、手の甲で光の粒子が弾けるさまさえ新鮮だ、と言いたげだ。ゆるゆると小道を進むにつれて、徐々に表情がやわらいでいく。  カイルは四阿(あずまや)のかたわらに車いすを停めた。(えんじゅ)の大木が頭上に枝を広げ、葉ずれが歌い、憩いのひとときを演出してくれる。  音楽があれば言うことなしだ。そう思い、いつもジーンズのポケットに入れているハモニカを唇に当てた。村に伝わる子守唄を吹きながら、それとなくラウルに視線を流す。  ぷいと横を向かれてがっかりしたのもつかの間、固く結ばれていた唇がゆるむ兆しが見えた。ラウルが最初は小声で、だんだん興に乗ってきたとみえて情感たっぷりに歌う。  看護助手がもう一度とせがむと、 「厚かましいぞ、やなこった」  べえ、と舌を出して真っ先に笑いだす。  ラウルが、彼本来の快活な一面を覗かせるのはいつ以来のことだろう。カイルは万歳をしたいような思いで微笑んで、ハモニカを持ちなおした。  いっそう心を込めて吹きはじめると、素朴な音色と伸びやかな歌声が睦み合って世界の(はて)まで響き渡るようだ。  去年の夏の一情景が、なつかしさと切なさをない交ぜに鮮やかに甦る。  狼の襲撃を警戒してラウルとともに寝ずの番を務めた夜も、焚き火を挟んで奏し、歌った。自分とラウルのふたりで世界が完結しているようで、満ち足りていた。  あの夜に時間を巻き戻せるものなら、どんな犠牲を払っても惜しくない。命だって喜んで差し出す。  つぎは哀歌、今度は流行歌……。一曲歌い終わるごとに声量が豊かになり、カイルのツボを押さえた伴奏も相まって、妙なる調べが生まれた。  看護助手がうっとりと聞き惚れている様子に気をよくしたふうで、ラウルは飽かずに歌いつづけた。

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