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第52話

 それには精神(おころ)を蝕む毒素を洗い流すという効用があり、白い歯がこぼれる。  ラウルは不精髭でざらつく頬をこすると、むさ苦しいな、と肩をすくめてみせ、それから自らスティックを握って車いすを動かした。はらはらと見守るカイルをよそに、槐の幹に横付けにすると梢を仰いだ。 「立派な木だなあ。俺も木になっちまうからには、このくらいデカくなりてぇな」 「不吉なことを言うと災いが降りかかる。ゲン直しのおまじないを唱えて、早く!」 「バァカ、今さらゲン直しもへったくれもあるか。目をひんむいて、よく見てみろ」  苦笑交じりに毛布をむしり取り、ガウンの裾をめくる。下肢全体が縦の方向に細かくひび割 れて、ごつごつしている。その中間あたりが瘤になっているのは、恐らく膝小僧の名残だ。  ラウルは、ますます幹めいてきた下半身に斧を振り下ろす真似をした。カイルがしゅんとなると、バツが悪げに頭を搔き、深呼吸ひとつ真摯な口調でこう言った。 「カイル、おまえは俺を正気につなぎとめてくれる鎖だ」  心臓が跳ねてハモニカを取り落とした。  鎖と聞いて思い浮かんだものは、春の嵐に見舞われた日のひとコマだ。草の生えぐあいを確かめに牧草地を見て回っている最中に天気が急変し、雪混じりの風が吹きすさぶなか、互いの躰をロープでつなぎ合わせて村に帰った。  ラウルが先導してくれたあのときと異なり、今度はカイルが彼のよりどころになる。いや、すでに〝かけがえのない相手〟だと思ってくれている。  ありがとうと告げた瞬間、うれし泣きに泣きくずれてしまいそうで、カイルは唇を嚙みしめた。ラウルの手をぎゅっと握りしめて、舌足らずな部分を補う。 「指が折れるだろうが、馬鹿力」  などと顔をしかめるそばから、ラウルは指をからめてきた。  折しも生き別れの恋人たちが巡り合えたように、ふたつのちぎれ雲がまとまった。つないだ手がどちらも汗ばみ、吸いつくようだ。  カイルは心地よい沈黙に浸り、こう思う。  ラウルと心が通い合う一瞬、一瞬を幸福と呼ぶ。  至福のひとときに酔いしれていたいが、他の患者に無理を言って確保した時間は三十分。そろそろ病室に引きあげたほうがよさそうで、だからといって画用紙になぞらえた空中に指で絵を描きはじめたラウルを急き立てるのは気がひける。  看護助手が遠慮がちに目配せをしてきた。カイルは、しぶしぶラウルの胸から下を毛布でくるみなおした。車いすの後ろに回ってハンドルを握ったものの、立ち去りがたい。  するとラウルが口をぱくぱくさせた。つられて身を乗り出したところに、艶っぽい声で囁かれた。 「俺に乗っかって腰を振ってるときのおまえは、最高にいやらしくて可愛い。チンポが使い物にならなくなる前に、もっといっぱいしとけばよかったな」 「いっぱい、って……」    絶句して、ハンドルにつっぷした。ラウルに怨ずる眼差しを向け、それでいて表情がにわかに婀娜(あだ)めく。  がラウルの形を憶え込むほど後ろが()れてきた矢先に、二度と番えなくなった。  最後に深奥に精が放たれてから、かれこれひと月。寝た子を起こす形になって、尾骶骨のあたりがむずむずする。 「なあ、むらむらすることはないのか」 「答えたくないっ!」  カイルは勢いよく車いすを押しはじめた。ところが何歩も行かないうちに、ぎょっとして立ち止まった。  白昼夢であってほしい、と願う。なぜなら女優になるとうそぶいて出ていって以来、ろくに便りもよこさなかったモニが、しゃなりしゃなりと近づいてくる。  ちょび髭を生やした小男を従えているさまは、さしずめ王女と家来だ。  ラウルが頭をもたげると同時にカイルは舌打ちをした。  ひところ病室に泊まり込んでいたうえに、カイルの姉という、いわば通行許可証を持っているモニはともかく、部外者は看護師詰め所で足止めを食らうはず。なのに、ちょび髭はどんな手を使って関所を通り抜けたのだろう。 「市村先生に……」  知らせて、とカイルが耳打ちし終えないうちに、看護助手は走りだしていた。その彼を一顧だにしないで、モニが笑いかけてきた。

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