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第55話

「チームリーダーの市村医師は手術中のため、代わりに僕が話を伺います。ちなみに」    サミュエル・モローは咳払いをして一拍おくと、選択肢を示すように指を二本立てて、 「警備員につまみ出される、自ら立ち去る。どうぞ、ご随意に」  片目をつぶってみせた。茶目っ気たっぷりの仕種とは裏腹に、モニに蔑みに満ちた眼差しを向ける。  カイルは、車いすを挟んで対峙するふたりの間に割って入ると、モニの鼻先に狼の牙を突きつけた。 「話はついたよな。これで女優さまの顔をずたずたにする前に、帰れ」  モニが睨み返してきた。押し問答を繰り返す以上に神経がすり減る、無言のやりとりを経たすえに、モニが背中を向けた。 「……帰るわよ、帰ればいいんでしょ」  捨て台詞を吐き、靴音も高らかに歩きだす。  その物腰は優美な反面、こころなしか虚勢を張っているように見える。ラウルが華奢な背中に向かって、(はなむけ)の言葉を贈るふうに語りかけた。 「俺にはカイルがいる。おまえは女優業に邁進して、おまえの幸せを摑め」  肺腑をえぐられるものがあったのかもしれない。後ろ姿に緊張が走り、いったん立ち止まったものの、スカーフをなびかせて先を急ぐ。  劉某が、未練がましく何度も振り返りながらモニを追う。  踏み荒らされた芝生に、ひと騒動あった痕跡が残っているものの、のどかな春の昼下がりといった光景が再び広がった。  どっと疲れが出て、カイルは小道にへたり込んだ。モニを八つ裂きにして自分も首をくくる。そうやってラウルに詫びたい気持ちで一杯だった。  と、サミュエル・モローが看護助手共々、頭を下げた。 「モニさんが看護師たちの注意を引きつけている隙に、男のほうが病棟内に侵入したようです。システムの盲点を突かれる形になってしまい、申し訳ありません」 「終わったことだ、謝罪はいらない。カイル、おまえも気にするな」  ラウルはスティックを操り、自分で車いすの向きを変えた。近寄りがたい雰囲気を漂わせて病室に戻る途中、噴き出した。 「あの劉とかいう軽薄な野郎、カツラだったな。カイルとやり合ったときに派手にずれて、そのまんま帰っていったぞ」    妙に朗らかな笑い声が、空にこだました。サミュエル・モローと看護助手がつられて笑顔になったが、カイルはしおしおと後につづいた。  その夜のラウルはいつになく饒舌で、食欲も旺盛だった。正規の病院食をぺろりと平らげても、物足りなげに鳩尾をさする。  ところでアヒルの肉団子のスープは、郷里ではいわゆる〝おふくろの味〟だ。それが食べたいと言いだし、カイルがふたつ返事でこしらえると、三杯もおかわりした。    ──一度は惚れた女……。  あの言葉にやるせない思いが凝縮されているようで、陽気に振る舞えば振る舞うほど、かえって痛々しい。  カイルは、モニに見立てた鍋を力任せに鍋を磨いた。鍋の底に姉と瓜二つの顔が映し出されると、罪悪感に心が軋んだ。  ラウルは泣く泣く恋心を葬ったに違いない。なのにモニのほうは、平気な顔でラウルを踏みつけにする。二重の裏切りに遭ったわけで、カサブタを無理やり剝がされたところに塩をすり込まれたような心理状態にあるのかもしれない。  そして中庭の出来事を記憶の彼方に追いやるには〝なかったこと〟にするのが一番と考えて、けろりとした顔を保つように努めているのだろう。やせ我慢を張っていると察しがつくだけに、胸の小鳥も血の涙を流す。  ラウルがベッドに移るのを手伝ってから、おやすみなさいを言って自室に下がる。  それが毎晩の習慣だが、この夜は立ち去りぎわに手首を摑まれた。 「こっちの部屋で一緒に寝ろ」 「えっ? でも……」  カイルは眉を八の字に下げた。夜中にふと目を覚ました場合、モニが隣で眠っていると錯覚して、切なさに苛まれるのでは……?  言外の意味を汲み取ったうえで、笑い話にすり替えるのが得策と判断したとおぼしい。ラウルはことさら下卑た手つきで、花芯をかき混ぜる真似をしてみせた。

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