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第57話

    第10章 新樹  木炭が画用紙をすべる音は、吹き渡る風に草原が波打つときのそれに少し似ている。  カイルは故郷に思いを馳せて淡く笑む。しかしラウルが馬に跨り、疾駆する場面が瞼の裏に甦ると表情が曇る。  鮮やかな手綱さばきで羊の群れを誘導するさまに見惚れたのは、今は昔の物語だ──。  窓ガラスに額を押し当てた。雨のヴェールを透かして向かいの病室を見やると、ため息がこぼれる。マットレスがむき出しになったベッドに、命の儚さを感じて。  その病室が(つい)住処(すみか)となった男性患者が、未明に息をひきとったと聞いた。死を悼む反面、羨ましいと思う気持ちがないわけではない。少なくとも彼は、しかるべき治療を受けられた。  それにひきかえラウルの場合は完全に手詰まりだ。  カイルはもちろん、今日にでも樹皮症の治療法が見つかるかもしれない、という希望を持ちつづけている。だが、期待外れに終わる毎日だ。  樹皮状のものはラウルの胴体にはびこり返り、彼は今では補助器具なしには座ることさえままならない。維管束が網の目状に伸び広がっていくのにともなって、栄養が末端まで行き渡らなくなりつつあるのか、漆黒の髪の毛はこころなしか色あせた。  陰鬱な風景の中で、テラスを彩る梔子(くちなし)の白さがいっそうまばゆい。紫陽花、朝顔、ひまわり、葉鶏頭、菊、福寿草……等々。  ラウルはあと何種類、四季折々に咲く花を眺めることができるだろう……。  来春の黄梅も、来夏の蓮の花も見られるに決まっている。頭をひと振りすると、動くな、と叱責が飛んだ。  当のラウルはモニとの一件があって以来、吹っ切れたものがあったようだ。油絵に挑戦すると意欲を燃やし、今しも居間の中央に停めてあるストレッチャーになかば寝そべった恰好で木炭を走らせる。  手元のボタンでマットレスの角度を五段階にわたって調節できるように改良されたストレッチャーが、いわば進化版の車いすだ。ラウルは、日中はもっぱらそれに寝転がってすごし、カイルをモデルに寸暇を惜しんでクロッキー三昧だ。 「疲れただろう。このへんにしとくか」  三十分あまりもカイルに同じポーズをとらせつづけたすえに、ラウルは木炭を置いた。消しゴム代わりの食パンを無意識のうちにかじって、苦い、と顔をしかめた。   カイルはくすくすと笑い、黒ずんだ指を濡れタオルで拭いてあげた。躰じゅうが強ばり、関節という関節が悲鳴をあげるようだが、むしろ心地よい疲れだ。  なぜなら絵を描いている間は、ラウルの目に映るものは自分だけ。それは無上の喜びだ。  そこでラウルが壁時計をちらりと見た。 「そろそろ出かける時間だな。おまえがいないと一日が長い。帰りが待ち遠しい」 「仕事が終わったらすぐに帰る……それより休憩のときにいちど戻ってくる」 「メシ抜きでってことだよな。無理をしてもらってもうれしくない」  ばたんとスケッチブックを閉じると、ふいとストレッチャーを動かす。壁にぶつかるまぎわに巧みに切り返すと、カイルとすれ違いざま、蜂蜜色の髪をひとふさ梳きとる。  ここのところラウルがじゃれてくる率が、急速に高まってきたように思う。  それはカイルにとっては痛し痒しだ。たとえば指が触れ合わさると、甘酸っぱいものが心という(かめ)を満たす。それでいて悩ましい気分になり、口実をもうけて逃げだす羽目に陥る。  なまじっか貫かれる悦びを知ってしまったがゆえの欲求不満かもしれない。強いて客観的に分析してみる。  本当にそうだとしたら、カイルは自分が恥ずかしい。だが躰は正直で、どんな形でもかまわないから受粉してほしい、と願っている。  受粉、と呟いたせつな電流めいたものが全身を突き抜けた。狼の牙を握りしめて、不埒な欲望を抑え込む。 「顔が赤いぞ、どうした」 「光の加減だ、見まちがいだ……」 「瞳も潤んで熱がある顔だ、ごまかすな」    カイルは財布を取ってくると称して自室に急いだ。ところがラウルがストレッチャーを器用に操り、行く手に回り込む。

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