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第58話

 と、咳払いが背後で響いた。ふたり同時に振り返ると、市村がドア口から顔を覗かせて聴診器を掲げてみせた。 「イチャついているところを邪魔するのは心苦しいが、回診だ」  カイルは飛びすさった。イチャつくも何も、ラウルと自分は色っぽい関係じゃない。市村の冗談は相変わらずピントがずれていて、笑うに笑えない。  市村は、ラウルの腕に加圧帯を巻いた。いつもの手順に従って健康状態をひと通りチェックし終えると、ガウンを脱いで腹這いになったラウルの背中を、 「ここは痛むか、ここはどうだ」  一ミリ刻みに揉んだり軽くつねってみたりする。くすぐったげに肩が上下すると口辺に微笑が浮かび、強めに背中を押しても反応がなければ眉がいくぶん寄る。  ストーマの着脱がしやすいように、と脇腹を覆う樹皮に切れ目を入れて中間の層を露出させた箇所。そのぐるりを丁寧に消毒したのちに眼鏡を押しあげた。 「新しく処方した保湿クリームは効果絶大だ。臀部のささくれ……もとい、褥瘡(じょくそう)がきれいに治っている」 「ぼかしても同じだ。おがくずっぽいのが木の肌もどきの裂け目にへばりついてたのが、マシになったって話だろうが」  ラウルは鼻で嗤うと、フレームを摑んでずりあがり、反動をつけて仰向けになった。腰がろくに曲がらない躰にはすさまじい負担がかかるにもかかわらず、マットレスの上半分がほぼ直角になるまで手元のボタンを押しつづける。  そして市村と向き合うと、額をつついてみせた。 「ここに電極を埋める手術を頼む」  カイルはちょうど、お茶を淹れてきたところだった。テーブルにつまずいてお盆が傾き、紅茶が足にかかったが、ちっとも熱さを感じない。呆然と立ち尽くし、ただただラウルを見つめる。  市村が白衣の皺を伸ばす仕種をみせた。椅子に腰かけ、ストレッチャーに膝が接する形に身を乗り出す。 「『俺をサイボーグにする気か、ふざけんじゃねえ!』──の一点張りだった、きみが態度を軟化させるとは驚きだ。どのような心境の変化があったのか、実に興味深い」    ラウルはガウンの紐を結んで、もったいをつけた。カイルを招き寄せると細腰に腕を回し、これ見よがしに撫であげた。 「手術をしておけば、舌も木になっちまってしゃべれなくなったあともコンピュータが俺が考えてることを読み取って、文字に変換してくれるんだろ。ってことは、お陀仏になる瞬間までカイルと話ができる。だったら、脳みそをいじってもらう価値がある」    熟慮を重ねたすえに、この結論に達したのだろう。ラウルは、むしろさばさばした口調で胸の内を明かし終えると、力強くうなずきかけてきた。 「えり好みなんかしていられるか。お前と言葉を交わすのが最優先だ」 「ラウル……」  熱い塊が喉をふさぐ。カイルは()げた頬を優しく撫でて返し、そのやりとりは市村の目には神聖なものに映ったのかもしれない。 「他の手術の予定が詰まっていて一両日中にとはいかないが、なるべく早くという方向で日程を調整しよう」  冷徹な医師という仮面が剝がれてしまうのを恐れているように、うつむきがちに手帳をめくる。忙しなくボールペンをノックしながら、カイルとラウルの耳を気にして日本語で独りごつ。 「本人たちに自覚があるのかないのか恋心は熟成中……か。遠からず、このふたりを引き裂こうとは運命は残酷だ」  ところで、とラウルが空咳をした。カイルを振り仰ぐと、まじめ腐った顔でドアに顎をしゃくった。 「急がないと遅刻するぞ。で、あんたに折り入って訊きたいことがあるんだが……」  などと、あらたまって前置きしたわりには切り出しあぐねる体で頭を搔く。

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