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第59話
おかげでカイルは社員食堂の厨房にすべり込んだあとも、〝質問〟の内容が気になって仕方なかった。上の空でうずたかく積まれた皿を洗い、十数玉のキャベツを千切りにする。
てんてこ舞いの忙しさが一段落するころには、指は切り傷だらけになっていた。
銀色の雨がそぼ降る、その夜のことだ。カイルはいつものようにラウルがベッドに移るのを手伝い、サイドテーブルに水差しを置くと、
「おやすみなさい。用があるときは、いつでも呼んで」
反転したとたん寝間着の裾を引っぱられた。つんのめり、そこに思いもよらないことを言われた。
「全部、脱いでベッドの横に立ってくれ」
カイルは目をぱちくりさせながら、指で耳の穴をほじくった。脱ぐということは裸になるということで、だが藪から棒にそんなことを言いだす理由がわからない。
曖昧に首を横に振り、突っ立ったままでいると、苛立たしげに寝間着をたくしあげにかかる。
「これも、ズボンも、下着も全部脱げ」
「ヌードモデル……って言うんだっけ? それをやれってこと? わかった、絵の道具を取ってくる」
「違う! これを見ろ」
かつては羊飼いの作業全般に、畑仕事に、と日に焼けていた手はめっきり白くなった。その手が天井灯に翳され、つられて視線を移すと心臓が大きく跳ねた。
その兆候が現れる日が来ないことを祈ってきた。ぴんと伸ばされた右手の指先には黒い斑点が散らばり、しかも甘皮がぎざぎざに裂けている。
照明の悪戯で妙なぐあいに皺んで見えるだけだ、と自分をなだめすかしても無駄だ。
絶望という鎖に雁字搦めにされるようだ。
記憶が甦る。足の指に異変が生じた最初のころが、こうだった。血豆ができた、胼胝 ができた、と暢気に構えている間に維管束は静かに、しかし着実にラウルを蹂躙しはじめていた……。
床がかしいでしまったように、立っていられない。カイルはへたへたと頽 れると、涙の膜が張った目をラウルに向けた。
あきらめの境地に達した面が少なからずあるようで、ラウルは、カイルよりよほど落ち着いていた。
手の甲に浮き出した静脈や、爪。掌の筋や指の付け根の膨らみ。それらを愛しげになぞりながら、美しい模様を織り出すように語りかけてくる。
「俺の手は、もうじき駄目になっちまう。その前にカイル、思う存分おまえに触れたい。全身に、躰の内側にも」
じわり、と語尾に淫蕩なものがにじむ。ラウルは枕元側の柵を摑むと、上体をねじりながらずりあがった。顔をベッドから突き出し、うなだれた頭に顎を載せる。そしてツムジを吐息でくすぐった。
「市村は、さすがに医者だけのことはあるな。おまえをよがらせるコツを訊いたら、図解つきで説明してくれた。時々、ふてくされたみたいに口ごもるのが面白くて同じことをしつこく訊き返してやると眼鏡にさわる回数が増えて、あれはヤキモチだな、ざまあみろ」
と、勝ち誇ったようにニンマリして締めくくる。
カイルは脊髄反射のような笑みを返したものの、
『俺の手は、もうじき駄目になっちまう』
この述懐が頭蓋でこだましつづけていて、相槌を打つ余裕すらない。
うずくまった。手を奪うのはむごい、あまりにも残酷だ。あえぐように繰り返しつつ、拳で床を殴った。
生きながらにして蠟人形に作り替えられるように、肉体という檻に閉じ込められていくラウルが、遠からず絵筆さえ捨てざるをえなくなる? 生き甲斐を取りあげられてしまう?
悪魔か、それとも神さまの仕業なのか。好き放題にラウルをいたぶっておいて、まだ足りないと言うのか?
ぽろりと涙が落ちた。カイルは手の甲で目許をぬぐい、顔をあげた。めそめそするより、ラウルのためにできることがあるはずだ。
視線がからみ、熱っぽい口調で囁きかけてくる。
「頼む、脱いで隅々まで見せてくれ」
たっての願いに、今度は一も二もなく応じる。むしり取るようにすべてを脱ぎ捨て、ラウルがさわりやすい位置に立った。
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