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第74話

    第12章 樹幹  通りすがりの少女が、あれ? という顔を向けてくる。  カイルは帽子のツバを押し下げた。ここ最近、街を歩いていると、すれ違いざまに振り返られることが増えた。その理由というか原因はわかっている。  モニが、商業ビルの壁面を飾る巨大な看板から笑いかけてくるせいだ。ふっくらした唇は杏色(あんずいろ)に彩られ、その口紅は爆発的に売れているらしい。  当のモニは忘れたころに電話をかけてくる。  もっとも、✕✕というプロデューサーと食事をしただの、秋に始まるドラマの準主役に抜擢されただの、と自慢話に終始するのが常で、カイルは生返事でやり過ごす。  長広舌(ちょうこうぜつ)が途切れるのを待ちかねて、ラウルが、と切り出しても必ず巧みにはぐらかされる。  モニは、ラウルに関する記憶を消し去りたがっているようだった。脱皮を終えた生き物が、古い皮を打ち捨てて顧みないように。  ちなみに化粧品メーカーのイメージキャラクターに起用されたというのは、具体的にはどういうことなのか、と市村に訊ねてみると、 「芸能活動は順風満帆、ただしモニくんの知名度があがれば、きみも出歩くときは変装する必要に迫られるかもしれないな。瓜二つな双子ならではの苦労話だ」  モニと間違われてサインをねだられるかもしれない、とカイルを震えあがらせる。  たったひとりの姉が夢を叶えつつある。祝福してあげるべきで、だが、わだかまりが溶けていない。第一、モニにかかずらっている暇はない。  陽炎が燃え、歩行者も自動車もビル群も飴細工のようにゆがんで見える。ラウルの母親に電報を打ちがてら、首都までの旅費に、と工面したものを送金をしてきたところだ。  そう、ひと肌脱がなければ、と焦って行動に移すほどラウルの病状は深刻だった。  病院に帰る途中、つづけざまにため息がこぼれた。故郷の村は、夏祭りの準備に活気づいているころだ。  去年の今ごろは、ラウルはきたる狼との一騎打ちに備えてナイフさばきに磨きをかけていた。モニは晴れ着を縫い、自分自身は羊の世話に明け暮れていた……。  ロケットの蓋を開けて漆黒の髪にくちづけると、心が安らぐ。ラウルが待っている、急いで帰ろう。  信号待ちの車列を縫って道路を横切り、ところがセンターラインを越えるのと相前後して眩暈に襲われた。からくも道路を渡り終えたとたん、トラックが轟音を立てて背後を走り抜けていき、風圧でよろめいた。  強いて足を速めた。  たかが、ふた晩つづけて徹夜したくらいでへばるとは、だらしない。現在(いま)はつきっきりで看病するのが最優先だ、そうだろう?  樹皮症は、末期症状を呈するに至った。脳の電気信号でカーソルを動かすという道が残されていて、おかげでパソコンを介して意思の疎通を図ることは可能だが、当のラウルは一日の大半をうつらうつらして過ごす。  肺が維管束で真っ白になって、なぜ未だに自発呼吸を持続していられるのか医師たちは首をかしげる。  小難しい理屈は、カイルにはどうでもいい。ラウルを抱きしめること以外に大切なことは、何もない。  病室に帰り着くのももどかしく、ベッドに駆け寄った。嬰児(みどりご)にお乳をあげるように、氷水で濡らしたガーゼで額を湿らせる。  すると、どんよりとした目に光が宿り、カイルを認めていっそう輝いた。  そしてラウルは微笑んだ。唇を含めて顔の三分の一は、特殊なマスクをつけているように樹皮状のものに占領されてしまったために、厳密にいえば〝微笑んだように見える〟。  だが、目尻の優しい皺は饒舌(じょうぜつ)だ。

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