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第75話
「もっと水がほしい? 冷たい水に頭を浸すとさっぱりする……痛っ」
次にラウルの意識がはっきりするのが何時間後になるのか、予測がつかない。いきおい早口でまくしたてたあげく、舌を嚙んだ。
肉体の機能は衰えても、知能に問題はない。現にのろのろとだが、サイドテーブルに据えてあるモニターに、ユーモアたっぷりに文字が綴られていく。
〈世話女房をもらった気がする。いや、口うるさいおまえは、俺の母ちゃんか〉。
カイルはふくれてみせながらも、半日ぶりに会話が成立した喜びを嚙みしめる。
そしてベッドにかがみ込むと、今や若木の幹そのものといったラウルの全身に保湿クリームをすり込む。まんべんなく、慈しみに満ちた手つきで。
耳そうじをしてあげるのも、濡れタオルで顔をふいてあげるのも、決して人任せにはしない。なぜなら「ありがとう」と直接言えない代わりにロボットアームが伸びてきて、ぽんぽんと頭を叩く。
役得だ、と白い歯をこぼした。カイルは床に膝をつくと、腰を浮かせて枕のそばに顔を持っていった。
ラウルは、もはや頭もほとんど動かせない。だから見交わしておしゃべりを楽しむには(モニターを介してだが)、この形がもってこいだ。
仲のいい看護師に恋人ができた、市村が月餅をこっそり五個も食べているところを目撃した、病院の敷地に捨てられていた仔猫のもらい手が見つかった……等々。
明るい話題をえりすぐって面白おかしく話して聞かせる。デジタル化されたものとはいえ、当意即妙に相槌が打たれるたびにホッとする。
ラウルはまだ、好奇心が旺盛だ。
一秒たりとも離れていたくないのに何をぼんやりしている。そう、なじるように胸の小鳥が羽をばたつかせる。
確かに、おしゃべりは後回しにしてもかまわない。それより漆喰で塗り固められたように、ラウルにぴたりと寄り添っていたい。
早速、並んで寝転がった。五分刈り程度の長さに伸びた髪を撫でて、生え際をついばむ。
樹皮状のものの侵蝕を免れている額に、頬に、瞼に、鼻梁に、愛情たっぷりに舌を這わせていく。肌と樹皮の境目で折り返すことなく、唇の痕跡を留める凹凸 には特に念入りにくちづける。
「キス、一万回はしたよね」
〈順調に数をこなしてるな。この調子でいけば……〉。
と、尻切れトンボになり、顔の上半分に皺が寄ったのは、おそらく欠伸をしたのだ。
ラウルが再び寝入ってしまう前に、恋情という宝石がぎっしり詰まった胸の裡 をさらけ出しておきたい。
カイルは額と額をくっつけた。わななきがちな口辺に笑みをたたえて、熱っぽく囁きかける。
「声がとうとう出なくなる瞬間まで『愛している』と言いつづけてくれたよね。最高の贈り物をありがとう。ラウルを愛して愛されて、おれは世界一の幸せ者だ」
木目調のシートを幾重にも巻きつけたように見える喉から「ぎぎぃ」と奇妙な音が発せられたのは、
「あっ、『愛している』って、また言ってくれた。おれ、読心術の天才かも」
そうだな、というふうに睫毛がゆっくりと上下した。短いやりとりのうちに体力を使い果たしたように、モニターが沈黙した。
「おやすみ、ラウル……」
名残惜しく額をついばんでから、そっと床に下りた。身じろぎもしない躰を上がけでくるみ、枕頭台に視線を移したせつな、どきりとした。
二十四時間にわたって脳波を測定する機械がそこに鎮座し、コードがラウルの頭部に延びている。ところが波形のうねりぐあいが、昨日より小さい。
枕元に戻って耳をそばだてた。寝息は弱々しいが、規則正しい。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。ラウルの容態が急変することがあれば市村たちが持ち歩いているブザーが鳴る仕組みになっていて、誰も駆けつけてこないということは、問題がないということだ。
日がとっぷり暮れてもラウルが目を覚ます気配はない。カイルは一縷 の望みをつなぎ、夜通し寝顔を見つめてすごした。
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