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第3話

「――伊勢くん。伊勢くん、起きて。朝ごはん、できたよ」  肩を揺すられる。  瞼を開ければ、俺を見下ろす同居人の顔が映る。 「……南波? なんでいるの?」 「今日は僕も仕事が休みだって、昨日言ったでしょ」 「そう、だっけ……」  今の俺の同居人は、南波(ななみ) 湊司(そうじ) という名の、彼。南波は俺の飼い主ではなく、俺の恋人だ。俺が今まで生きてきて、唯一「恋人」と呼べる人。 「……まだ夢の中にいるの? 相変わらず朝が弱いんだね、伊勢くんは」 「ああ、……うん。ごめん、起きるよ」 「眠そう。……ふふ、おはよう。伊勢くん」 「……おはよう」 一瞬、夢と現実が混同した。今自分が夢の中にいるのか、現実の世界にいるのか、わからなくなる。それくらいに、夢と現実のギャップがありすぎた。  南波の笑顔に、どき、と胸が高鳴る。  ああ、心臓が動いている。 「……南波」 「うん?」 「……今日も、綺麗だね」 「……ありがとう? 寝ぼけてるの、伊勢くん」  南波を見ていると、時々自分がいる世界が本物なのかを疑いたくなることがある。南波と共に生きる世界が、あまりにも今までの俺の世界とは違っているからだ。  まぶしい朝の光に喜びを感じる心と、南波に見惚れる自分自身。あの頃の俺が知らなかったものを、あたりまえのように今の俺は持っている。 「はい、しゃんとして。朝って言ってももう九時だよ」 「ううん……俺にとってはまだ早朝だよ」  南波に引っ張られながら、俺はベッドを這い出た。国会議員の秘書として働いている南波は当然のように朝に強いけれど、ホストの俺はほぼ夜型の生活を送っているので朝にめっぽう弱い。本当はまだ寝ていたいところだが、久々に南波と休みが合った今日を睡眠で潰してしまうのは、もったいない。  リビングに行くと、南波が作った朝食が並んでいた。エッグベネディクトにサラダとマッシュポテト、ヨーグルトに紅茶。エッグベネディクトにかけられたソースが朝日を浴びてきらきらと輝いていたので、つい「おお……」と声が出てしまった。 「初めて作ってみたんだけど、見た目は悪くないでしょ」 「三つ星ホテルの朝食に出てきてもおかしくないのでは」 「ふふ、何言ってるの。でも、きみの料理の腕に追いつけるように努力はしてるから、いつかそのくらいの腕にならないとね、僕も」 「別に料理で俺と張り合わなくても……」  俺は元ヒモだったこともあり、料理は得意だ。しかし、南波は特別得意というわけではなかった。南波はそれが不満だったのか、俺の本棚にある料理の本の内容を頭にたたき込み(勉強した跡と思われるノートを発見した)、めきめきと料理の腕をあげていった。昔から彼は生真面目で、高校生の時も勉強ばかりしているような生徒だったが、まさかこんなところでその性分が発揮されるとは俺も思っていなかった。一ヶ月前に卵焼きを焦がした彼が作ったとは思えない、贔屓目なしにホテル並みのエッグベネディクトを見せつけられて俺は少しばかり驚いている。  俺が席に着くと、南波はじっと俺を見つめてきた。おそらく、俺の評価が気になるのだろう。目をきらきらとさせて、「褒めて」と言わんばかりに唇をきゅっと閉じている。しっぽを振る子犬のようだなあ、と思って少し笑いそうになった。  いただきますをして、紅茶で舌を潤してから、さっそくフォークとナイフを手に取る。軽くナイフで卵に触れると、ぷるりと震えた。ゆっくりと刃を沈めていけば、ぷつんと卵白が割れて、黄金色の黄身が蕩け出てくる。普段、南波が作る目玉焼きは黄身が固めなので、こんなに綺麗なポーチドエッグが作れたことにびっくりしてしまった。 「とろとろの黄身から朝が始まるのは贅沢な気分」 「あ~、それはわかるかも。あとそれに、伊勢くんが淹れてくれた珈琲があれば完璧」 「はいはい、ご飯食べたら珈琲淹れますよ」 「やった」  イングリッシュマフィンは表面は少しカリッと焼いてあって、ナイフをいれるとさくりと切れた。黄身とソースを絡めながら、マフィンと共に、挟んである炙りサーモンとほうれん草のソテーを少しとる。南波の視線を浴びながらそれを口にいれると、とろりとした黄身とオランデーズソース、そしてカリカリとしたマフィンの食感がまず舌に響く。ソースはこってりとしながらもレモンがきいているのでくどさを感じない。塩気のあるサーモンとしっとりとしたほうれん草が上手く調和して、呑み込むとほどよい余韻を残しながらもさっぱりとした感じがして、自然とフォークが再びマフィンへ伸びていく。 「……すっごい、美味い。南波、すごいね」 「え、ええ、そうかな」 「うん、本当に美味しいよ。南波はなんでもできると思ってたけど、料理までここまでできるなんて、本当にすごいな」 「う、うーん、ほら、でも、はじめから何でもできたわけじゃないし、これだってこっそり卵の茹で方とか練習してたし、そんなに褒められるほどのことでも」 「できるまで練習できるのは、才能だよ」 「そ、そういうものなのかな」  南波は食事をする手を止めながら、顔を赤くして照れている。  南波は、褒めて欲しいと思っている割には褒められると過剰に照れる。それは南波が子供の頃にあまり親に褒められたことがなかったから、という経緯もあるのかもしれないが、何にせよ俺は褒められて喜ぶ南波が可愛くて、つい褒めすぎてしまう。  この、「可愛い」と感じる感覚がたまらなく好きだった。胸の奥からこみ上げるような南波への「可愛い」という気持ちが尊いもののように感じてしまう。ようやく見つけた、「俺」そのもののような気がして、南波を愛する自分自身を、愛でたくなる。  南波と話しながら食べていると、いつの間にか全部食べてしまっていた。まだまだ食べられそうな気がしたが、朝から満腹まで食べる必要もなかったので、少し温くなった紅茶を飲みながら一息つく。 「今日は何の予定もたてていなかったな。どこか行きたいところとか、ある?」 「え、うーん……僕も何も考えていなかったな……」 「ゆっくり考えようか」 「うん」  キッチンへ向かって、食器を流しに置く。そして、南波の要望に応えるべく、珈琲を淹れる準備を始めた。  珈琲豆と、ミル、ドリッパーにケトル。普通のドリップコーヒーもあるのだが、先ほどの南波の言い方だとこうして豆から淹れた珈琲を飲みたがっているのだろう。南波はブルーマウンテンの豆が好みだと言っていたので、ブルーマウンテンが入っている缶を開ける。丁度二杯分ほど残っていたので、それを全てミルに移す。 「ん?」  豆を挽こうとしたところで、南波がキッチンへやってきて俺の背中に抱きついてきた。肩越しからミルを眺めて、「続けてどうぞ」と呟いてくる。 「どうしたの?」 「……珈琲淹れてる伊勢くんが、好きなの」 「え? どういうところが?」 「……わからないけど。平和な感じがして、好き」 「平和な感じって」  ぎゅうっと腕に力を込めてくる南波が可愛らしかったので、軽く唇を重ねてから、もう一度ミルに向き直った。蓋を閉めて、取っ手をゆっくりと回すと、ぱきぱきとゴリゴリが混ざったような豆が削れていく音が響き出す。同時に、ブルーマウンテンの香りがふわりと部屋の中に漂い始めて、心地よい気分になる。 「いい匂い」 「南波も豆挽いてみる?」 「ううん、伊勢くんがやっているのを見ていたい」 「そういうもの?」  南波は俺の肩に顔を埋めながら、ただ豆が挽かれていくのを眺めていた。  穏やかな時間だな、と思う。陽の光を浴びることに罪悪感を抱きながら生きてきた俺が、こうして朝日を浴びながら、恋人に背後から抱きしめられてのんびりと珈琲豆を挽いているこの時間が。 「……南波」 「うん?」 「珈琲飲んだら、セックスしない?」 「……うん、いいよ」  南波が俺の肩に頬を擦り付ける。  愛おしいってこういうことなんだろうな、と心の中に想いが落ちていく。  

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