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歪な恋は聖夜に始まる03
◇ ◆ ◇
ごそりと隣で動く気配に、設楽はゆっくりと意識を覚醒させた。真崎の寝室には窓がないせいで陽の光で判断する事はできないが、既に外は明るくなっている時間の筈だ。躰を抱いていた腕を真崎が静かにおろすのは、設楽を目覚めさせたくないからだろうか。
「起きるか?」
「尊…おはようございます」
「ああ」
「まだ、寝ていてください。片づけを少しして、戻ってまいりますので」
そう言って真崎は、そっと設楽の額に口付けを落とした。しなやかな動きで寝台を降りる真崎は、猫のようだと設楽は思う。華奢という訳ではないのだが、どうも自分と比べるとやはり細いからだろうか。
タオルを腰に巻いただけで部屋を出ていく真崎の背中を見てそんな事をぼんやり思いながら、設楽は再び静かに目を閉じた。
然程の時間をかけず再び寝室へと戻ってきた真崎に掛布を捲ってやれば、嬉しそうに微笑んでするりと腕の中に潜り込んでくる。
「起こしてしまいましたね」
「別に、気にする事じゃない」
言いながら腰を引き寄せる。小さな吐息を漏らしてされるがまま肌を寄せる真崎の額に、お返しのように今度は設楽が口付けた。
「寒くなかったか」
「はい。ですが、外は寒そうでしたよ」
「まだ降ってるのか?」
「いえ、降ってはいないのですけど」
昨晩、早い時間から降り出した雪がいつやんだのかを設楽は知らなかったが、真崎の口振りからするに少しは積もっているのだろう。
「あの…尊…?」
「何だ」
「よろしければ、その…今夜も泊まられては如何ですか?」
真崎の言葉に、設楽は閉じていた目蓋を開いた。黙って見つめていれば、真崎が恥じらうような仕草で続ける。
「その…、ここからなら、尊の職場も歩いて行けますし、朝は冷え込むので…車は危ないかと思いまして。必要になれば戻って来れますし…」
「スタッドレスには変えてある」
「そう…ですよね…」
何故か寂しそうに見える真崎を見下ろして、設楽は首を傾げてみせる。
「まだ、可愛がられ足りないのか?」
「っ…そんな意地の悪い事を仰らないでください。さすがにわたくしとてこれ以上は……その、躰がもちません…」
顔を赤くして俯く真崎が可愛くて、設楽は下肢に熱が集中するのを自覚した。三十一にもなってまったく年甲斐もないと思えば苦笑が漏れる。優しく抱かせろと言ったならこの男は応じるのだろうかと疑問に思う。
ともあれ設楽は、欲情している事を真崎に悟られないようにシレッと態勢を変えた。
「ならもう用はないだろう?」
不思議そうに言えば真崎は僅かに目を見開いた。そして、どこか怒ったような声で言う。
「わたくしは貴方をお慕いしていると申し上げました!」
「そうだな」
だからどうしたと不思議に思いつつ真崎の髪を撫でれば、設楽はあっさりと手を払い除けられた。ついでのように背中を向けられる。
「何をそんなに怒ってるんだ」
「尊は、わたくしが躰だけを求めていると思っていらっしゃるんですね…」
――違うのか?
思わず内心で即答しておきながらも、すぐに口に出さないのは長い事続けてきた職業のおかげだろうか。迂闊に口を滑らせようものなら軽く腕の一本くらいは持っていくような男に、設楽は仕えている。
怒っているというよりは拗ねているような気がする真崎を設楽は背後から抱き締めようとして、はたとその手を止めた。今の状態で密着しようものなら、それこそ躰だけだと思われるのではなかろうか…と。
――参ったな…。
躰だけと言われれば実際真崎はそんなものだろうと思っていた事は確かだが、あたかも自分がそうであるかのように誤解されるのは御免である。本来であれば設楽の方こそ躰だけでなく甘えて欲しいくらいなのだが、真崎を相手に無理な願いだと諦めきっていた。それなのに…。
現状はといえば設楽の方が誤解をされかねない状態にあるのが何とも遣る瀬無い。
真崎の態度を見れば、ただ甘えるのも吝かではないと、そういう事なのだろうとは思う。だとすれば、迂闊な事を言ったとしか言いようがない設楽だ。
「悪かった。お前が、そう長い時間一緒にいたいと思うようなタイプだとは思ってなかった」
「わたくしは…、わたくしが甘えるのはご迷惑ですか?」
「いや」
か細い声に、全力で抱きしめたくなる設楽ではあるのだが…。如何せん余計に煽られて、とてもではないが抱き締められる状況ではなかった。
――ガキか俺は…。
思わず項垂れたくなる設楽が、だがまあいいかと開き直るまでにそう時間はかからなかった。相変わらず背中を向けたままの真崎の躰を、両腕で包み込む。
「甘えたければ甘えろ。嫌な訳じゃない」
身じろぐ真崎に僅かに腕を緩めてやれば、ごそごそと振り返る。嬉しそうな顔が設楽を見上げた。
「では、時間の許す限り一緒に居てください」
「お前がそうしたいと言うならそれでいいんだが…」
元より設楽は他人に何かを望む事が極端に少ない受け身なタイプである。躰が大柄である故に、それが包容力として他人に映るのは、設楽にとって幸運な事だった。
ともあれ、口には出さずとも恋人には甘えられたい設楽にとって真崎の申し出は願ったりの事である。妙な性癖さえ前面に出されなければ、真崎は設楽にとってこれ以上ないほど好みなのだ。
だが次の瞬間、設楽は腕の中の真崎を見下ろし、些か困ったような顔をする羽目になった。
「触るなよ…。放っておけばそのうち収まる」
「嫌です。わたくしに欲情してくださっているのでしょう?」
下肢へと手を伸ばしたまま、設楽の腕を掻い潜って真崎が掛布の中へと潜り込む。止める気になれば幾らでも止められる筈ではあったが、設楽は欲に流される事にした。
ごそりと、真崎が動くたびに掛布が動くのをただ黙って見下ろしていれば、あっという間に雄芯をあたたかな熱が包み込む。
「っ…」
喉の奥まで一気に飲み込まれ、先端をぐっと食まれて息が詰まる。ずるずると吸い上げるようにくぐもった水音が響いては再び飲み込む真崎の舌技は、相当のものだと思う。
――誰に仕込まれたんだか…。
思わず嫉妬にも似た感情を抱くのは致し方のない事だろうか。あまり時間をかけず、我慢もせずに設楽は真崎の口の中へと欲を放った。掛布の上から頭を撫でてやれば真崎が這い上がってくる。
ひょっこりと顔を出した真崎の濡れた唇を、設楽は親指で拭った。
「そんな事までしなくていい」
「わたくしが、したいと思うのもいけませんか?」
「どうせなら口じゃなく、お前の躰で満足させろよ」
ゆっくりと伸ばした設楽の指が真崎の双丘へと触れる。程よく引き締まったふくらみを大きな手で鷲掴みにすれば、真崎が小さく息を詰めるのが分かった。
「っ……尊…これ以上されたら…」
「無理はさせない。普通に優しく抱かれるのも嫌か?」
「それ…は…、嫌ではないのですが…その、わたくし…慣れておりませんので…」
そう言って顔を真っ赤にして俯く真崎が、可愛くて仕方がないのは当然の事で。
「それはそれで面白そうだな。大人しくしてろ」
ぐいと臀部を掴み上げ、設楽はあっさりと真崎の躰を胸の上へと抱え上げる。そのまま足を掴んであっという間に後ろを向かせて腰を引き上げた。
「っなにをするんです…っ、こんな…!」
「黙れよ」
「ひあ…っ、あッ、あぁ…っ」
目の前に曝け出された双丘を割り開き、奥の蕾を舌で舐めあげれば、真崎の口から艶やかな声が漏れる。腰を浮かせようとする真崎の脚を容赦なく腕で捉え、設楽は逃がそうとはしなかった。
明け方まで雄芯を食んでいた真崎の蕾は未だ柔らかく、すぐに綻んでは舌先を受け入れる。
「そんなッ、あっ、そんな場所を…舐めないでくだ…はぅんッ」
「いつもは見せつける癖に、恥ずかしいのか?」
「ぁっ、や…ッ、汚いです…から…っ」
どう足掻いたところで逃げられないと分かっているくせに、それでも抵抗をやめない真崎の蕾を設楽は舌先を潜り込ませたまま啜り上げた。濡れた音をわざとらしく聞かせるように。
「ひぅ…ッ、あっ、あっ、嫌っ…嫌ぁ…っ、みこ…尊ッ、駄目です…っ」
辛うじて自由になる腕で真崎が硬い腹筋を叩く。そんなさまを設楽が可愛いと思っている事など、気付きもしないのだろうか。
真崎が妙な性癖を炸裂させている時でさえも、設楽は後孔を舐めた事は一度もなかった。むしろそんな気遣いなどが真崎にとってただの逆効果である事は、設楽も分かっている。だからこそ、こんな時くらいは喘がせたいと、そう思う。
やがて抵抗を諦めた真崎がくたりと腹の上に寝そべって、設楽はこっそりと口角を歪めた。体格差で真崎が口など届こうはずもない事は分かりきっている。それでも、おずおずと伸ばされた指が設楽の雄芯へと柔らかく触れた。
「尊…、また…こんなに…」
いくらか困ったような響きを持った声が聞こえてきて、設楽は内心で苦笑を漏らす。言われずとも自身の躰が反応していることくらいは分かっていた。本当に、盛りの付いた猿か何かかと設楽自身も思うくらいだ。
数本の指を飲み込ませても襞が引き攣れないのを確認して、ようやく設楽は真崎の躰を解放した。躰を逆さまに抱いたまま上下を入れ替える。
「っ……尊、少しはわたくしにも…」
「さっき咥えただろうが」
あっさりと言い放ち、くるりと態勢を入れ替えた設楽は真崎に圧し掛かる。すらりと伸びた脚を軽々と抱え上げ、口付けを落としながら真崎の後孔を雄芯で貫いた。
「ふっ…ぅッ、ぁっ、み…こと…ッ」
「痛くないか?」
「気持ちぃ…、あ…っ、はぁ…ぁっ」
きゅっと目を閉じて堪えるように寄った眉間の皺が、随分と色っぽい。普段からこうなら真崎も悪くはないのだが…と、心底思いながらも設楽はゆるりと腰を押し上げる。
「あっん…ッ、尊……みこ…とぉ…っ」
しがみ付き、背中へと回された真崎の爪が僅かに皮膚を抉った。ただそれだけの事が愛らしく思えてしまって、設楽は余計に興奮する。
「は…っ、あッ、おっき…ぃ、ナカ…が、あぁ…っん」
「お前…少し黙ってろ。……そんな声出されたんじゃ、埒が明かねぇよ…」
そう言った設楽は結局その後、真崎の中へと二度ほど欲を放ってその身を解放した。それはもう丁寧に抱き潰したと言っても過言ではないほどに優しく。
◇ ◆ ◇
年が明け、一週間ほど経ってようやく設楽は暇を言い渡された。一応、母親の再婚相手のところへ挨拶くらいはしに行くかと顔を出せば、真衣よりも年下の血の繋がらない弟に出くわす。
設楽の母親は、真衣の父親との離婚後すぐに再婚していた。その時すでに父親と同じ生業についていた設楽に、どうか仕事を内密にしてくれと泣きつかれた経緯がある。つまり、身内が極道だなどと知られたくないと、そういう事だ。
当時十三歳だった真衣は、それが納得できずに父親の元へ行った。設楽としてはどうでも良かったが、それを真衣に言えば『お兄ちゃんはお母さん支えてあげなよ』とあっさり言われて今に至る。
ともあれ義理の父親と、その息子の義理の弟は設楽をただの会社員だと思い込んでいた。
いつもとは違うスーツ。車も、事情を知る匡成の好意で普段とは違うものを用意してもらっている。
こんな扱いを見れば、まあ大抵自分がどう思われているのかくらいは察しが付く。だが、同居している訳でもない設楽にとって、多少の面倒はあれどこれも義理事の一つのようなものではあった。
目の前には久し振りに顔を出した設楽のために母親が作った料理の数々と、十四という歳の割に純粋な目をした義理の弟、要(かなめ)が座っている。両親は要をおいて二人でどこかへ出かけて行った。だが、それよりも何よりも現在設楽の一番の悩みは真崎である。
クリスマスの翌朝、設楽は真崎のマンションから仕事へと向かった。その時に連絡先は交換したものの、かれこれ二週間、メールも電話もきてはいない。
気になるなら自分から連絡すればいいとは思うのだが、どうにも今更な感じがしてしまう設楽だ。
「ねえ兄貴、これ、食べないなら貰っていい?」
「ああ」
「やった!」
育ち盛りの年ごろである要が指した皿を、炬燵(こたつ)のテーブルの上を滑らせて差し出してやる。
初めて顔を合わせた時、要は確か八歳だったはずだ。設楽の体躯の大きさに驚き、父親の背中に隠れたまま随分と出てこなかったものである。あれから六年。今では無邪気に話しかけてくるようになった。
「兄貴がもうちょっと帰って来てくれたら、母さんも父さんも喜ぶのにー」
「お前は土産が欲しいだけだろ」
「へへっ、バレたか」
家が遠い訳ではないが、仕事が忙しい設楽が実家に顔を出すのは稀な事だった。母親からの連絡がなければ正月くらいのものだろう。
極道と結婚しておきながら、出世が見込めないと分かったとたんに父親を見捨てるような女だが、一応は新しい家庭で母親を演じているらしい。要の口からもたらされる家の話には、母親と血の繋がりがない事を気にした様子は一切見られなかった。
現に大抵は『要が会いたがっている』などと理由を付ける母親が、その実ただ外へ出ている”ごく普通の”息子を装って欲しいというのは目に見えている。だから設楽は、実家に帰る時は何かしら手土産を持ってきていた。そうしておけば満足するような女なのだ。それに、要が喜ぶ。
どちらかといえば設楽にとって、今では要の為という理由が大部分を占めている事は言うまでもない。どうも甘えられることに弱い設楽は、顔に似合わず可愛らしいものが好みである。もう少し感情が表に出るようなタイプだったならば、それはもう今など目じりを下げている事だろう。
「あっ、そう言えば俺、クリスマスイヴに兄貴の事見かけたんだー」
「うん?」
「一緒に居た人、彼女? 腕組んで仲良さそうだったよねー」
要の言っている人物が真衣である事はすぐに分かったが、どうにも説明が億劫で設楽は曖昧に頷いた。明け透けな性格をしている真衣を母親が良く思っていない事は確かで、会わせれば面倒を被るのは設楽である。
幸い、真衣は十九の割に老けて見えるし、勘違いさせておいても年齢に不自然さはないだろうと思う。
「いいなぁー。俺も早く彼女欲しいー」
食欲はもう満たされたのか、炬燵でゴロゴロと寝そべりながら言う要に設楽は苦笑を漏らす。
「兄貴はさー、中学ん時とか彼女いた?」
「忘れたな」
「ええー? 思い出してよー」
寝そべったままつんつんと袖を引っ張る要を見下ろし、僅かに考えた設楽は思わず口を噤んだ。覚えていたとしても言える筈などない設楽は、中学の頃にはもう既に匡成の事務所の人間と関りがあったし、彼女というよりプロのお姉さん方に可愛がられていたのである。
――悪気がないのも考え物だな…。
「彼女はいなかったかな」
「そうなの? てか昔からそんなに背ぇ高かった?」
「お前と同じころはそうでもない」
「マジでー? じゃあ俺も伸びるかな…」
そう言う要の躰付きは、年齢通りまだ幼い。身長は百六十に満たないくらいだろうか。男子中学生の平均身長など知る訳もなく、総じて”小さい”としか思わない設楽の身長は百九十三センチある。
毎日牛乳を飲んでいると日々の努力を語る弟の頭を撫でてやりながら、義父の事を思い出す。確か、身長はそんなに高くなかった筈だ。百八十もないと確信できるのは、義父は鴨居を”くぐる”という事をしないからだ。
「あまり高くなっても良い事がある訳じゃない」
「えぇー…。でもチビよりいいじゃん」
「まだ成長期だろう? そのうち伸びるよ」
「そうかなぁー…、だって父さんもそんなに高くないし」
例え発育が遺伝と関係しているにしても、要の母親がどうだったかは知らない。
「兄貴のお父さんおっきかった?」
「まあまあかな」
「そっかー…、うちお母さんもそうでもなかったからそんなに伸びないかも…」
しゅんと項垂れる要は、設楽と違って表情が豊かだ。いうなれば腕白な子犬のような感覚である。可愛がると言うより甘やかすようにまだ柔らかな髪を撫でていた設楽だったが、不意にまだお年玉を渡してない事に気付いた。
「そういえば」
そう言いながら胸元のポケットからポチ袋を取り出して要の目の前に差し出してやる。
「えっ! 今年もくれるの!?」
「まあ、年に一度だしな」
項垂れていたのも束の間、まさしく現金にも顔を輝かせる要は設楽にとって可愛い弟だった。
「ありがとう!」
素直に礼を言って懐へと仕舞い込む要の頭を、設楽は再び撫でる。嫌がるそぶりも見せずに炬燵に寝転がるこの弟は、設楽の本当の仕事を知ったらどんな顔をするのだろうかと思いながら。
――臆病なところもあるし、怯えられそうだな…。
元は母親の都合で仕事を教えはしなかった設楽だが、この穏やかな関係が崩れるのは少しばかり惜しい気もする。いずれ要が設楽の本当の姿を知る時が来たとしても、なるべく遅くあって欲しいと、そう思う程度には。
結局、数年後にはまんまとこの二人は仕事上でも接点を持ってしまう事になるのだが、それはまた別の話だった。
出掛けていた両親が戻り、明日も仕事があるからと実家を後にした設楽は、車を真崎のマンションへと向けていた。打ったメールの返事は来ていない。
一度、匡成の…辰巳の本宅に寄って車を変えようかとも思ったが、これといって問題もないだろうと設楽は普段とは違う車のままだった。
マンションの地下駐車場へと車を滑り込ませ、来客用のスペースに車を停めた時だった。一台のアウディがスロープを降りてくるのが目に入る。その助手席に、真崎の姿を捉えて設楽は僅かに眉をあげた。
運転しているのは、設楽や真崎よりも幾分か年上らしい男だ。
――取り敢えず待つか…。
設楽が車を停めているのとは少しだけ離れた場所に停車したアウディの助手席のドアが開く。同時に運転席のドアも開いて、設楽は出直す事を考えた。だが…。
助手席から降りた真崎の腕を、走り寄った男が掴む。何やら揉めているようにも見えるその雰囲気に、設楽は少し様子を見ることにした。駐車場に声が反響して聞こえてくるが聞き取れず、設楽は窓を僅かに開ける。
「離してください。わたくしは戻るつもりはありません」
「それはお前が勝手に決める事ではない」
――昔の男か?
ぼんやりとそんな事を思いながら眺めていれば、唐突に男の手が真崎の頬を張った。乾いたその音は、音の割にそうダメージがある訳ではなさそうではあるが、どちらにせよ手をあげるような真似をする男を放置しては置けない。
ドアを開けて降り立った設楽に、真崎の視線が動いた。驚いたように目を瞠る真崎は、どうやら設楽の存在に気付いていなかったらしい。
「何をしてる」
低く、唸るような声。過分に威圧感を放つ声音は、設楽が仕事の時に使うものだ。
真崎の腕を掴んだ男がこちらを見て、僅かにたじろいだのは設楽の躰の大きさだろうか。だが、男に引くつもりはないようだった。
「他人には関係のない事だ。口を出さないでもらおうか」
「誰もあんたの言い分なんぞ聞いてねぇよ。用があるのはツレの方だ」
真崎を顎で指し示し、設楽は二人の元へと近付いた。真横に立って見下ろしながら、真崎を捉えている腕を掴む。
「あんたとこいつがどんな関係だろうと知った事じゃねぇが、目の前で手ぇ上げられちゃ黙ってはいられねぇなぁ」
ギリギリと腕を掴む手に力を入れれば、目の前の男が眉根を寄せる。それを設楽は無表情に見下ろしていた。
やがて耐えかねたように男が真崎の腕を離すのを見て、設楽も腕を離す。
「尊…どうして…」
「それは後でいい。大丈夫か」
「はい…」
元より痛みには慣れているだろう真崎だが、設楽とて顔に手を出した事はない。
「事情はどうであれ、これ以上こいつに手を上げるってんなら俺が相手してやるよ」
どうする? と、そう視線で問いかけるように設楽は男を見た。男が、鋭い舌打ちを響かせる。
「今日のところは帰る。潤、逃げられると思うなよ」
設楽には目もくれず、真崎を睨んだ男が踵を返した。あっさりと走り去る車は”わ”ナンバーで、すぐにレンタカーである事が知れる。アウディのテールが消え去ったスロープを見つめていれば、小さな声が聞こえてきた。
「ご迷惑をおかけしました…」
「別に迷惑じゃない。誰なんだ?」
「兄です。一番上の…」
真崎の言葉に、設楽は驚いた。顔が似ていないのもさることながら、兄という事はわざわざ京都から出てきたという事だろうかと。ともあれ地下といえ駐車場は寒く、設楽は真崎の腰を抱いてエレベーターへと向かった。
扉の閉まった狭い密室は、二人の他に誰もいない。設楽は、叩かれて僅かに赤みを帯びた真崎の頬にそっと触れた。
「痛くなかったか? 少し赤い」
「大丈夫です…。それよりも尊はどうして…? 車も…」
「休みで実家に戻ってた。親父の計らいで車は変えさせてもらってる。うちの家族は、母親以外に俺の仕事を知らないからな」
「そうですか…。見苦しいところをお見せしてしまって申し訳ございません」
「いや」
いつになく沈んだ顔の真崎を見下ろし、設楽はどうしたものかと思案する。あの男が兄だと言うのなら、確かに他人が口を挟むような話ではない。だが、暴力などというのは不穏ではなかろうかと、そう思う。
職業柄、設楽は暴力沙汰にも慣れてはいるが、それが当然だと思ってはいなかった。まして、真崎のようなまっとうな仕事についている人間となれば尚更だ。
「何かトラブルを抱えているなら言え。出来る事はしてやる」
とは言えど、真崎は設楽などではなく、もっと頼りになるような男に仕えている。幾人かいる私設秘書の中でも、雪人が真崎を取り立てて使っている事は設楽の目から見ても明らかだった。相談くらいは乗るだろうとも思う。
フロアへの到着を知らせる軽やかな音に、設楽は真崎の腰へと回していた腕を解いた。
「考えたい事があるなら帰るが、どうする」
「いえ…、尊のご都合がよろしければ寄って行ってください」
「都合が良いも何も、来たのは俺だろう」
「確かに」
呆れたように言えば、真崎が微笑む。だが、どことなく力ないその表情に、設楽は気付かれないよう小さく息を吐いた。
これが真崎以外の誰かであったなら、面倒ごとなど御免だとその場だけで去っている。だが、相手は真崎で、付き合いは浅くとも恋人である事に変わりはなかった。
三度目の来訪といえども随分と濃密な時間を過ごしている部屋は、設楽にとって既に気を遣う場所ではない。そもそも初めてきた時にさえ、勝手に冷蔵庫を開けて料理まで作っている。
未だ精彩を欠いたままの真崎をソファに座らせ、設楽は慣れた様子でコーヒーを淹れた。
「ブラックでよかったか」
「はい。ありがとうございます」
律義に礼を言う真崎に、思わず笑いが漏れる。
「お前の家のものに、礼を言われるのは妙な気がするな」
「そういえばそうですね。ですが、お手を煩わせてしまいましたので」
「気にしなくていい。苦になるような事でもないしな」
他人のために動く事を苦痛に思うような人間は、極道など長くは続けていられない。それこそ本家の跡取りなどでもない限り、下積みは誰しも通る道で、上の者の世話をするのも仕事のうちである。その点において、設楽は元より苦に思った事はない。まあ、だからといって設楽は匡成以外に仕える気もないのだが。
「あの…尊…?」
「何だ」
「兄の事ですが…、今は何も聞かずにおいてはいただけませんか? いずれ…落ち着きましたら必ずお話はしますので…」
「別に無理に聞こうとは思っちゃいない。片がつくのならそれでいい。その後でも、無理に話す必要もない」
設楽は隣に座る真崎の頭を軽く撫でた。歳は設楽よりも真崎の方が一つ上ではあるのだが、嫌がるそぶりもないので好き勝手撫でている。時折耳元を擽るように弄んでいれば、カップを置いた真崎が甘えるように胸へと倒れ込んできた。
「尊…」
甘い声で名を呼ぶ真崎の躰を、設楽はあっさりと抱え上げた。横抱きにするように膝の上へと座らせれば、首へと腕を絡ませる真崎に口付ける。
「ん…っ」
小さな吐息とともに、合わせた唇から水音が響いた。そう深くはないが、触れ合うたびに互いの舌を絡めては解く。そんな口付けを幾度も交わし、設楽は真崎の、真崎は設楽のボタンを外していった。
開けたシャツの合間に手を這わせれば、真崎の胸の突起を穿つピアスが指先に当たる。細い鎖を指先で軽く引きあげるだけで、真崎の口からは艶やかな嬌声が漏れた。
「ぁっ…んッ、尊…っ、どうか…わたくしを手酷く可愛がってくださいませ…!」
「どうして欲しいか言ってみろよ」
”可愛がれ”と、そう言う真崎を設楽は内心で些か残念に思った。が、そんな事などおくびにも出さず、指に引っかかった短い鎖を軽く弄ぶ。
「っ……もっと…強くっ、もっと強く鎖を引いてくださいッ」
「ドマゾだな」
「はっ、ぁっ、ああ…ッ」
手酷くして欲しいと強請り、蔑めば歓喜する。普段は頗る理性的な顔をしておきながら、一度豹変すれば歪んだ欲に塗れる真崎を、設楽は無情にも腕で払った。
少しばかり前までの甘い空気はどこへやら、落とされた真崎が床から恍惚とした表情で見上げてきて怖気(おぞけ)が走る。
真崎が縋りついてくる前に立ちあがった設楽は、断りもなく浴室へと足を向けた。どうせ放って置いても追いかけてくるだろう真崎を残して。
翌日仕事でそう遅くはなれなが、今ならまだ良いかと腕時計を見遣った設楽は思う。朝がそんなに早くない設楽は、アパートに寄って着替える時間くらいはいつでも確保できた。
ともあれ数週間振りの逢瀬である。時間が許す限りは真崎を可愛がってやろうと、そう思いながら設楽は他人の家の風呂場へとずかずかと入っていった。
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