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歪な恋は聖夜に始まる04

  ◇   ◆   ◇  その話を設楽が耳に挟んだのは、三月も終わろうという頃の事だった。  その日は匡成に呼び出され須藤の本宅…つまり雪人の家を訪れていた。通常匡成が雪人を連れている時は、移動の際に設楽を呼ぶことはない。基本的には真崎がその一切を請け負っている筈だった。  だが、このところ専ら設楽が呼び出されている、その理由にだいたいの予想はついていた。 「で、結局連絡はつかねぇのか」 「これが今朝届いていた」  後部座席で交わされる遣り取りに、チラリと視線を向ければ雪人の手には白い封筒が乗っていた。その上に『辞職願』という文字が見えたのは、設楽の気のせいではないだろう。  ――あいつは何を考えてる?  この数カ月…否、真崎が兄だと言った男と会ったあの日以降、真崎はメールも電話も一切の連絡が取れなくなっていた。もしかしたら雇用主の雪人には連絡が行っているのかもしれなかったが。  だからといって、設楽が雪人や匡成の話に首を突っ込む訳にもいかないのは、真崎との関係を二人が知らないからだ。例え関係を明かしていたとしても、おいそれと口を出せるような問題でもない。  小さく息を吐いた設楽はだが、このまま真崎を放っておく気はさらさらなかった。雪人の話をする時の真崎の顔が忘れられない。  業種は差があれど、誰かに仕えるというその一点において設楽と真崎の仕事は共通していた。そして真崎が雪人という主に、どれほど惚れこんでいるのかを疑う余地などない。それが突然辞職願を出すとは思えなかった。  ――暇を申し出れば、間違いなく親父には気付かれるだろうな…。  匡成は、筋さえ通せば融通が利かない人間ではない。むしろ真崎に対する気持ちを言えば、快く暇をくれるだろう。だが、どう言ったものかと迷う設楽である。  京都の方まで出向く時間はさすがになかった。まして休みであろうと何であろうと、匡成から呼び出されればすぐに動けるようにしておかなければならないのが設楽の仕事だ。ついでに言うのなら、真崎のように辞職願を出せばすぐに辞められるような仕事では当然なかった。  せめてもの救いといえば、雪人が真崎を惜しんでいる気配がある事だろうか。そして匡成も気にかけている。それがどことなく嬉しく、そして誇らしいのは、設楽が少なからず真崎の仕事に対する姿勢に惚れこんでいる部分があるからに他ならない。  そうでなければ、最初に誘われた時点で真崎を力尽くでも断っている。  ――それにしても、相談くらい出来なかったのか?  信用されていないとは思わない。むしろ真崎の性格上、迷惑を掛けたくないという思いの方が強いだろう事は設楽にも分かっている。だがしかし、それでも一言相談くらいしろと思ってしまうのは、どうしたって真崎に惚れている証拠だろう。  ――仕方がないな。  この後、雪人を送り届けた後に匡成は一人になる。揶揄われるか、驚かれるかは分からないが、話してみるかと設楽は腹を括った。   ◇   ◇   ◇  その日の晩には、設楽は京都駅へと降り立っていた。相変わらず、動くとなれば即断する匡成には驚かされる。  真崎との関係を暴露したうえで兄だと言う男が来た日の事を告げれば、匡成は面白そうな光をその目に浮かべてあっさりと雪人に電話を掛けた。  雪人へと手短に話を告げるのを聞くともなく聞き流していれば、通話を終えた匡成がやはり揶揄うような声音で問いかける。 「忠犬同士気が合ったってか?」  匡成の言葉に黙っていれば、話は面倒だから雪人が戻ってからにしろと言われた。 「しかしお前と真崎なぁ…。お前はもっと手間のかかるようなのが好みだと思ってたが…、ありゃあ正反対じゃねぇのか」 「……親父は俺を何だと思ってるんです?」 「世話好きの器用貧乏だろ」  ドきっぱりと言われてしまえば反論しようもないのは、設楽のような家業にとっては当然の事で。その上言う事が的を射ているものだから反論の余地もない。だが。 「器用貧乏というほどではないでしょう。周りから見れば自分はそう悪い場所には居ませんよ」 「世話好きは否定しねぇのかよ?」 「世話好きでないと、若の面倒なんてみれません」 「ははッ、そりゃあそうだ」  設楽が”若”とそう呼ぶのは、辰巳一意(たつみかずおき)。設楽よりも五歳年上の、匡成の実子である。  これがまた極道の家に生まれるべくして生まれてきたというような男で、とにかく面倒が嫌いな上に他人を扱き使う事を当然のように思っている。それはもう若い頃からの事で、組の若い衆がいなければその辺で野垂れ死んでも設楽は驚かないだろう。三十六になった今でも、買い物一つした事がないような男だ。  一意自身に自覚はあるし、その上で何もしようとはしない。良く言えば素直。悪く言えば我儘。気分屋ではあるが筋は通すし、腑に落ちれば下の者に頭を下げる事になんの躊躇いもない。  手はかかるが裏表もなく、何事も筋を通す一意は若い連中にも好かれてはいる。だが、世話を焼くほうの身としては、それはもうこれ以上に手間のかかる男もいないというのが正直なところだった。  そうしてかれこれ数時間で戻ってきた雪人と合流し、結果匡成の許しを得て設楽は現在京都にいる。雪人も、真崎が戻ってくるのならいつでも仕事に復帰させると言ってくれたのは幸いだろうか。  設楽に与えられたのは、だが今日を含めて三日という僅かな時間だった。普通であれば真崎を探し出すのも不可能だと思えるほどだ。  ――無理矢理攫う訳にもいかんしな…。まあ、真崎の実家に行ってみるしかないか…。  東京から京都まで新幹線で二時間強。匡成の即決力のおかげでまだ夜も早い時間ではあるが、それでも真崎の実家の呉服問屋が開いているような時間ではなかった。  ホテルに荷物を置き、一服がてら真崎にメールを打つ。数カ月返信のないところを見れば返事が返ってくる望みは薄いが、もし読むだけでも読んでいるのだとしたら設楽が京都に来ている事は伝わる筈だった。  さして広くはないホテルの一室で取り出したのは、片手に乗る大きさのタブレット端末。雪人から届いたメールに添付されたファイルを開けば、真崎の個人情報がズラリと画面に浮かび上がる。一度、新幹線の中でも目を通したファイルを設楽が開いた理由は、真崎の家までのルートを確認するためである。  そこには本名、生年月日、血液型から趣味や既往歴に至るまで。あらゆる情報が調べられていた。もちろん、家族構成も記載されている。  ――おいおい。こりゃあ興信所も商売あがったりじゃねぇのか…?  移動中、雪人という男の恐ろしさを垣間見た気がして、要らぬ世話だと分かっていながらも匡成が心配になった設楽である。この分では、匡成の後ろ暗い事も何もかも雪人には筒抜けになっている事だろう。もしかすれば、設楽自身も。  ぞくりと背筋に寒気を感じながら、液晶に浮かんだ文字を目で追っていた。  真崎の家族構成は両親に兄が二人。祖父母は既に他界している。真崎の兄は双子で、名前は長兄が左京(さきょう)で次兄が右京(うきょう)。随分しゃれた名前だと、見た時にそう思った事は記憶に新しい。  住所を選択してマップを開けば、ホテルからはそう遠くないことが分かる。それが予約を入れてくれた雪人の采配である事は火を見るよりも明らかだった。まったくもって頭が下がる。  マップを携帯へと転送し、設楽はほぼ手ぶらでホテルを出た。見慣れない街の中を散歩でもするかのようにゆっくりと歩く。店は開いてなくとも場所だけは確認しておきたかったし、夕食もついでに摂るつもりである。  新宿と比べれば街全体が暗い気がするが、時間もあってか人が少ないのが好ましい。  やがて辿り着いたのは、築年数は相当なものだろうが手入れが行き届いた店。広くとられた正面の入り口には格子扉が閉められていて、その内側にシャッターが下りていた。景観を損なわないためなのだろう、シャッターの色も古い街並みの中にあって浮かないように配慮されている。  ――でかいな。  入口の上に掲げられた看板は木製で、如何にも老舗といった風情を漂わせていた。何もかもが東京とは違うそれに、設楽は思わず息を吐く。  ともあれ、いつまでも閉まった店の前にいては人目を引く事もあるだろうと、踵を返してもと来た道を戻る事にした。途中、何件か食事が出来そうな店があったのを覚えている。  ――分かっちゃいたが、今日はもうどうしようもないな…。  ホテルに戻り、携帯を確認してみても真崎からの返事は案の定入ってはいなかった。若者に流行りのコミュニケーションアプリと違い、メールでは相手が目を通しているのかどうかすらも分からない。ともすればメールすら見られない状況に真崎がある可能性は、あまり考えたくはなかった。  どちらにせよ動くのは明日からかと、設楽は些か狭い寝台の上にその身を横たえたのだった。   ◇   ◆   ◇  翌朝。目覚ましをかける事もなく設楽が目を覚ましたのは、午前六時の事である。設楽の仕事はそう朝早くはないのだが、余程前日の帰りが遅くならない限りはこの時間に起きていた。  持ってきた衣類はスーツのみ。設楽の普段着である。朝食を済ませ、一応ネクタイをポケットへと突っ込んで、ホテルを出たのは午前十時を回ってからの事だった。  匡成への報告は、メールで済ませてある。それと、短い礼の言葉も。  表へと出れば、昨夜とは違い観光客の姿がそこかしこ目についた。そんな様子を見ると京都というのは街全体が観光地である事を思い出す。  昨夜通った道をたどり、真崎の実家が営む店が見えたところで設楽は僅かに歩みを緩めた。昨夜とは違い、大きく開かれた入口に暖簾がかかりあまり店の中は見えないが、どうやら人の気配はあるようだ。  店である以上、正面から入ったところで文句は言われまいとポケットに片手を突っ込んだまま店先へと歩み寄る。と、ちょうどその時。暖簾の端から細い指先が覗いたかと思うと、紺地の布を優雅な仕草で退けながら一人の男が店から出てきた。  和装。着物になど興味もない設楽の目にも、一目で上品だと分かる生地を纏った男は、見間違えるはずもない真崎本人だった。 「真崎」 「っ!? みこ…と…? どうして…貴方がここに…」 「迎えに来た」 「…っ」  暖簾を持ち上げたまま固まっている真崎を訝しんだのか、店の中から聞き覚えのある男の声が目の前の男の名を呼んだ。 「潤、いったい何をしている」 「兄さん…っ」  慌てる真崎の横をすり抜けて出てきたのは、一月のあの日、真崎のマンションの駐車場で会った男だった。  ――一番上の兄って事は、こいつが左京か。  真崎と同じように着物を身に纏い、暖簾をくぐった男の視線が設楽を見る。その目には、見る間に敵意が浮かぶのを設楽は捉えていた。 「貴様が何故こんなところに居る? 潤を連れ戻しに来たとでも言うつもりか」 「そうだと言ったらどうだってんだ?」 「馬鹿馬鹿しい。警察を呼ぶぞ」  吐き捨てるように言う左京に、設楽はふん…と小さく笑う。 「呼びたければ呼べばいい。俺は何もしちゃいない」 「貴様のような男が店先に居るだけで営業妨害だ」 「兄さん…!」  止めに入る真崎の腕を、左京が掴む。 「いいからお前は奥に引っ込んでいろ!」 「っ……嫌です…」  腕を掴まれたまま僅かにこちらへと身を寄せる真崎に、設楽は口角を持ち上げた。 「真崎、お前の仕事が終わるのは何時だ。食事をしよう」 「は…」 「潤は貴様の所には行かせない」  真崎の返事を遮るように言い放つ左京に、増々面白くなる。設楽は、真崎を真っ直ぐ見つめたまま意図して優しげな声を出した。 「真崎、お前の返事を聞かせてくれ」 「参ります」  はっきりと目を見据え、意思を示した真崎に設楽は微笑んだ。 「では、店が閉まる時間に迎えに来る」 「行かせないと言っているだろうっ!」  まるで癇癪でも起こしているかのような態度の左京に、どういう事情があるのかは設楽には分からない。だが、それを聞くために設楽はこの場に居るのだ。  真崎の腕を掴んだまま離そうとしない左京に、だが設楽は何気ない仕草でポケットに突っ込んでいた手を抜き出した。僅かにたじろぐ左京をせせら笑う。 「真崎の言葉は録音してある。これで真崎が店から出てこなかったなら、俺はこれを持って警察に行ってやるよ。立派な監禁罪という訳だ」  設楽は手に持ったICレコーダーを軽く振ってみせた。 「馬鹿な! 俺は潤の家族だ。そんな話が通用するとでも…っ」 「残念だが通用するんだな、真崎左京。近頃の世の中は世知辛いものでな、血縁者でも警察は充分取り合ってくれる。まあ、そんな事になれば、困るのはあんたの方じゃないのか?」  頭上に掲げられた大きな看板を見上げて言えば、左京の顔が見る間に赤く染まっていく。脅しなど、設楽にとっては朝飯前である。まして設楽は、現状なんの罪も犯してはいないのだ。左京に警察を呼ばれたところで『知人に声をかけた』と言えばそれで済む。  こちらの意図を、しっかりと見抜いた真崎が可愛くて仕方がない。設楽は、珍しくもその顔に嬉しそうな笑みを浮かべていた。 「わたくしは仕事に戻ります。尊、後ほど…お待ち申し上げております」 「ああ、必ず」  その後、あっさりと真崎の実家が営む店を後にした設楽は、ホテルへと戻っていた。  昼食を適当に済ませて部屋へと戻れば、タブレットにメールが届いている事に気付く。発信元のアドレスは登録のないもので、本文も何もなくファイルが添付されている。どこからどう見ても怪しげなそれを放置したその時だった。携帯電話が鳴動する。  ――こっちも未登録の番号か…。  思わず液晶を胡乱気な視線で見遣りながらも、設楽は通話ボタンを押した。 「誰だ」 『設楽尊だな』  通話口から流れ出る声は、若い男のものだった。但し、頗る高圧的な口調である。どこかで聞き覚えのある声だが、知人や友人のような近しい類の感覚ではなかった。 「誰だと聞いてる」 『須藤甲斐』 「な…っ?」  たった一言。思いもよらぬ名前に、設楽は思わず唖然とした。  須藤甲斐(すどうかい)。雪人の実子であり、三年前に二十歳という若さで父親の跡を継ぎ企業グループの頂点に立った男の名である。  ――本人か…?  まさかそんな大それた嘘を吐くためにわざわざ電話をする者もいないとは思うが、それにしても大企業の会長が自分に電話をしてくる理由が設楽には分からない。 『信用できないと言うのなら一度お前の上司にでも確認しろ。五分後にまた電話する』 「いや…、いい」  見透かしたように言い放つ甲斐に、設楽は確認が不要である事を告げた。  一度だけ、甲斐は辰巳の本宅に滞在したことがある。その時の甲斐は十六という若さではあったが、尊大な口調が、その時のままだった。まあ、口調というよりも態度そのものが理解の範疇を超えてでかいのだが。 『少しは使えるようで安心した。ところでお前、メールは届いているか』 「メール? ファイルだけ添付してきたのはあんたか」 『開けてみろ』  目の前にいたなら容赦なくぶん殴ってやりたくなるほど偉そうな態度で言う甲斐に、設楽は内心で毒づく。  ――可愛げも何もないクソガキが…。 『開いたか?』 「っ!? ……これは…」 『お前に餌をやろう。代わりに一つ、仕事を頼まれてもらおうか』  タブレットの画面に浮かび上がったのは、何を隠そう真崎の店のここ数年の債務状況が纏められたものだ。  ――しかもこれは…、相当ヤバいんじゃないのか。倒産寸前だろう…。  一目で悪化の一途をたどっている事は、設楽の目から見ても明らかだった。辛うじて、ここ二カ月ほどが横這いになってはいるが。 「これを俺にどうしろって言うんだ」 『見ての通りあの店は倒産…いや、破産寸前だ。それを傘下に収めたい。最終的な交渉はこちらでするつもりだが、先ずは挨拶をしたいと思ってな』 「乗っ取るつもりか?」 『ふん…随分人聞きの悪い言い方をするじゃないか。せっかく犬に餌を持たせてやろうと言ってるんだ、大人しく言う事を聞いておけ』  態度は偉そうだが、続く甲斐の言葉を聞けば耳を傾ける気になった。 『良いかよく聞け。お前の目的である真崎が呼び戻された理由がそれだ。あの家を立て直せるとしたら、あれしかいないからな。先代の店主は経営が上手かった。だが、今の店主は女好きでどうしようもない。長兄は才があるが、店主の作った借金をひっくり返すほどの腕はない。次兄は、性格がおっとりし過ぎていて経営など任せようものならすぐにでも店を乗っ取られるのがオチだ。お前は、真崎を連れて戻りたいのだろう?』  ”餌”と、甲斐がそう言った理由を設楽は把握した。だが、それは真崎自身の話を聞いてみない事には答えられない。もし真崎が経営を立て直すというのであれば、甲斐に手を引かせなければならなくなる。 「せっかくだが、真崎の意思を確認してからでないと俺には答えかねる」 『そう言うと思ったよ。まあいい、明日の朝、答えを聞かせてもらおうか』  そう言って甲斐の方からあっさりと電話は切られた。設楽は思わず通話の切れた電話を見る。  ――あれが、二十三だと…? 勘弁しろよ…。  旧財閥を母体とした日本最大のアパレル系企業グループ、SDIグループ。その頂点に君臨する男の放つ異様なまでの威圧感は、電話越しの設楽を疲弊させるのに充分な威力を持っていた。  十六のころの甲斐など、まさしく子供。比べ物にならないほどに甲斐は、”帝王”と呼ばれた父親に近付いている。否、既に遜色がなかった。  ――参ったな…。とんだ化け物が出てきたもんだ…。  だがしかし、それも当然の事かと設楽は思う。そもそも真崎の主は甲斐の父親なのだ。  ――真崎を手放したくないって事なのか…?  昨日の朝、真崎からの辞職願を手にした雪人の表情は、どんなものだったのだろうか。そもそも幾ら有能とはいえ数カ月も仕事を放棄しているにもかかわらず、何のお咎めもなく復帰させると”あの”雪人がそう言う真崎は、どれほどの男だろう。  タブレットに浮かんだ数字の羅列を見ながら、設楽は小さく頭を振った。  ――これを立て直せる? どう足掻いても無理だろう、こんなもの…。  甲斐の言う通り、倒産どころかいつ破産してもおかしくない債務状況だった。それを、真崎なら立て直せると、甲斐はそう言ったのだ。  ――乗っ取るつもりか? それとも、恩を売って真崎を手元に置きたいだけか…。  手元の携帯に表示された時刻に、設楽は立ち上がった。何はともあれ、真崎の話を聞かない事にはどうしようもないのだ。  三度足を運んだ店の前には、既に真崎が立っていた。その姿に安堵する。 「尊…」 「待たせたか」 「いえ、わたくしも今出てきたところですから」 「飯は食ったのか?」  設楽がそう問えば、真崎がクスクスと笑い声をあげた。 「わたくしは、食事に誘って頂いたものだとばかり」 「そうだったな」 「それとも、すっかり忘れて尊はもう召し上がりました?」 「いや」  思ったよりも元気そうな姿に胸を撫で下ろし、宿泊しているホテルのレストランへと真崎を誘った。  向かい合って食事をし、バーカウンターへと移動した設楽は真崎の隣に腰を下ろす。 「昼間は、誰かと思った」 「和装でお目にかかるのは、初めてでしたね」  ぽつりぽつりと、会話がどことなくぎこちない感じがする。 「どうして何も言わずに居なくなった」 「それは…、私事でしたので…」 「仕事は、辞めるつもりでいるのか?」 「…っ。わたくしは…辞めたくはないです。ですが、今更雪人様に合わせる顔もございません…。それに、家の事もありますし…」  甲斐から聞いた事を、真崎に話すべきかどうかを設楽は迷っていた。先に言ってしまえば、真崎の本心が聞けなくなってしまいそうで。 「お恥ずかしい話ですが、わたくしの家は経営状況が逼迫しておりまして…。兄たちも努力はしているのですがどうにも立ち行かなくなってしまったようで、それでわたくしに…戻ってくるようにと…」 「立て直せるのか」 「正直なところ、わたくしにも自信はありません…。ですが…」  ざわりと、設楽の心が騒ぐ。真崎が戻ってこないかもしれないなどという、そんなものではない。真崎は、嘘を吐いていると、そう感じ取ってしまった。  隣に座る真崎の頤を、設楽が指先で捉える。 「み…こと…」 「建前はいい。お前の本音を言え」  視線だけを俯かせる真崎に、設楽は溜息を吐く。 「須藤甲斐から連絡があった」 「甲斐様…から?」 「お前の家の債務状況をご丁寧に教えてくれたよ。ついでに、お前の置かれた立場もな」 「っ…そう…ですか…。甲斐様まで…」 「真崎、俺はお前を連れて帰りたい。お前との事は、親父にも雪人さんにも話した。お前が戻ってくるなら、いつでも仕事に復帰させると雪人さんは言ってた。それに、甲斐はお前の家を傘下にすると、挨拶をしたいから駒になれと、俺にそう言ってきた。正直、俺には甲斐が何を考えてそう言ったのかは分からん。だが、お前には分かるんじゃないのか」  設楽の言葉を、俯いて目を閉じたまま聞いていた真崎が目蓋を開いた。  人目のないところに場所を変えたいという真崎を連れて部屋へと戻った設楽は、備え付けのインスタントコーヒーを淹れて差し出す。 「ありがとうございます。尊、わたくしは…それでももう雪人様の元へは戻れないのです…」 「理由を言えよ」 「兄に…兄はわたくしのその…嗜好を知っております…」 「雪人さんに暴露するとでも脅されてんのか?」  こくりと、小さく頷く真崎に設楽は小さく息を吐いた。 「お前が左京に手を貸してる理由はそれだけか?」 「はい…。自業自得なのは重々承知しております。ですが…あの方には…、雪人様だけには知られたくない…」  子供のように泣きじゃくる真崎をみれば、相当雪人に入れ込んでいるのだろう事は設楽にも分かった。だが…。  備え付けの執務机に投げ出しておいたタブレットを掴み上げ、幾つか操作すると真崎に差し出した。 「嘘…」 「嘘じゃねぇ。それを俺に寄越したのは雪人さんだ」  設楽が真崎へと差し出したのは、雪人から送られてきた本人の個人情報だ。そこには、真崎が知られたくないといった性癖までもが既に明らかにされている。 「お前の主は、化け物かと思ったぞ。それでも戻ってこいって言ってんだ、合わせる顔もクソもねぇだろう」 「ですが…、いや…しかし…」 「ガラにもなく狼狽えてんじゃねえよ。お前の本心はどうなんだ真崎。これで左京の脅しのネタはなくなった。今度こそ、お前の気持ちを聞かせろよ」 「わ…たくしは……、わたくしは…戻りたい…。雪人様にお仕え出来る事が、何よりもわたくしの誇りでした…。それに尊、貴方の元へ…帰りたい…」  弱々しく袖を掴む真崎の頭を、設楽は問答無用で抱き寄せた。 「家の事は、いいのか?」 「甲斐様に…お任せ致します…。甲斐様が契機を与えてくださってもなお、どうにもならないのだとしたら…それは潮時という事でしょうから…」  ぽつぽつと話す真崎の言葉からは、甲斐が店を乗っ取る気でいるようには聞こえない。むしろ甲斐が再建のチャンスを与えてくれると、信じて疑っていないような言い方だった。 「お前が残れば、安泰なんじゃないのか?」 「甲斐様は、わたくしの想いを酌んでくださったからこそ傘下に収めると、そう仰ったのですよ。それなのに裏切るような真似は出来ません。それに、無理だと判断されれば経営権はSDIに移るだけです。父も、兄も、その時にはきっと納得するでしょう」 「そんなもんか?」 「納得できないというのであれば、今度こそわたくしが終わらせます」  そう言って微笑みながら見上げる真崎に、設楽は久し振りの口付けを落とす。啄むようなキスを幾度か繰り返した後で、真崎が胸に抱きついて囁いた。 「尊が迎えに来てくださるなんて思ってもいませんでした…。わたくしが不甲斐ないばかりに…煩わせてしまって申し訳ございません」 「戻ってくるつもりでは居たんだな」 「もちろんです。わたくしのご主人様は、貴方をおいて他におりませんから」  うっとりと見上げる真崎の目は、既に欲情に濡れていた。だがしかし、設楽はそんな真崎に構うことなく煙草を咥える。すかさずテーブルに置かれたライターを取り上げる真崎を満足そうに見遣り、火を受け取った設楽は旨そうに煙を吸い込んだ。 「ところでお前、今日は泊まれんのか」 「はい…。明日も店に出ると、兄には約束させられてしまいましたが…」 「明日の朝、甲斐から連絡が来る。それに、雪人さんにも連絡を入れておけ。明日、お前を連れて帰る」 「そんな急には…」 「悪いが親父が俺に許した暇は明日までなんでな。どうあっても連れていく。まあ、帰りたくて仕方がないようにお前を躾けてやるよ」  くしゃりと真崎の髪を撫でて、設楽は携帯電話を手元へと放り投げた。雪人と話す真崎は、ひたすらに謝りながらもどこか嬉しそうだ。 「はい…。はい、ありがとうございます雪人様…。……はい、必ず…」  そう言って真崎に電話を差し出され、設楽が返事をすれば落ち着いた雪人の声が聞こえてきた。 『明日、真崎と一緒に戻って来れるのかな?』 「そのつもりですが」 『そうか。甲斐から、連絡は行っているね?』 「はい」 『君にも真崎にも、悪いようにはならないと私が保証しよう。どうか、二人で戻ってきなさい』 「はい。この度はご迷惑をおかけしました。親父にも、よろしくお伝えください」  分かったと、嬉しそうな声で雪人が言って通話は切れた。

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