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歪な恋は聖夜に始まる05

  ◇   ◆   ◇  翌朝。設楽は腕の中でごそごそとぎこちなく身を捩る真崎の動きで目を覚ました。 「うぅ…ぅっ」  くぐもった呻き声をあげる真崎の口許から、昨晩寝る前に噛ませた猿轡を外してやる。とろりと惚けたような目で見上げる真崎が、うっとりとした口調で囁いた。 「おはようございます…尊…」 「ああ」 「こんな…、こんな姿で尊の腕に抱かれて眠るなど…わたくしはもう我慢できません…」 「残念だがお前を構う暇はない」 「まだ…お許し頂けないのですか…?」  不自由そうに身を捩る真崎の躰は、腕と膝をベルトで拘束されている。もちろん、拘束したのは設楽自身だ。 「東京に戻るまで我慢してろ」 「あぁ…そんな…っ」 「いいじゃねぇか、その発情した面ぁ左京に見せてやれよ」 「っ…」  あっさりと真崎の拘束を外し、浴室へと放り込む。合間に頼んでおいたルームサービスのスタッフに対応し、設楽が煙草を点ければ携帯電話が鳴った。液晶に表示されたのは、須藤甲斐という名前。 「設楽だ。あんたのお父上からも話は聞いたよ」 『それで、答えは決めたのか?』 「ああ。俺は、真崎を連れて帰る」 『辰巳のところの番犬は優秀で助かる』  甲斐は相変わらず偉そうにそう言うと、僅かに口調を変えた。 『俺がお前に頼みたいのは、真崎の店主と直接話ができる状況を作る事だ。SDIが和服に関連する専属の仕入れ先を探していると、そう言え。後はすべて俺が話す』 「あんた、真崎の家を乗っ取るつもりなんじゃないのか…」 『事実上の買収に変わりはない。だが、今すぐに経営権まで奪おうとは考えていない…というところだな』  幾分穏やかに聞こえる声で話す甲斐の言葉に、設楽は昨夜真崎が言った事を思い出していた。同時に、気になっていた疑問が口をついて出る。 「どうして俺に? あんたがわざわざ俺に餌を持たせる理由は何だ。別に俺なんぞ通さなくても、SDIほどの企業なら交渉は出来る」 『SDIは、優秀な人材の流出を指を咥えて見過ごすような企業ではない。使える駒には相応の褒美をくれてやるのが当然だろう』 「なるほど。俺自身も餌という訳か」 『真崎が戻り、辰巳にも恩を売れるというなら、うちにとって破産寸前の呉服屋など安いものだ』  甲斐の一言で、設楽は自分の立場を理解した。いくら匡成と雪人が恋人同士とはいえど、家同士はビジネス上の付き合いがある。そして、須藤の家は甲斐が、辰巳としては匡成がその表に立っているのだ。  これは少々行動が迂闊だったかと設楽がそう思っていれば、電話口から低い笑い声が聞こえてきた。 『安心しろ。だからといって辰巳の家に今回の件を高く売りつけるつもりはない。こちらとしても、真崎を連れ戻してもらわないと困るからな』 「……あんた、性格悪いって良く言われねぇか?」 『そういうお前こそ躰の割に気が小さいんじゃないのか? まあ、追い返されないための餌を提供してやると言ってるんだ、精々働いて真崎を連れて帰ってこい』  ふん…と、鼻で笑って通話を切られ、設楽は携帯電話を眺めながら大きな溜息を吐いた。匡成に不利益にならないのなら願ったりだが、それにしても…と、そう思う。 「どうかなさいましたか? 尊…」 「ああ? 別に。甲斐と話してただけだ」  ちょうど浴室から出てきた真崎の声に振り返る。そこには、腰にタオルを巻いて濡れた髪を拭く真崎の姿があった。 「甲斐様と…。何か、仰っていましたか?」 「追い返されないための餌を用意してやったんだから、精々働いてお前を連れ帰れとさ」  近付く真崎の腕をぐいと引き寄せて、設楽は耳元で囁く。 「もう逃げられないな」 「…っ」   ◇   ◇   ◇  設楽が店に顔を出すのは、真崎の提案により午後という事になった。動くのなら早い方が良いと思っていたのだが、甲斐から告げられた内容を話した設楽に、午後には店主を呼び出しておけると真崎が言ったのだ。  真崎を送り出し、ホテルをチェックアウトした設楽は、一度駅へと戻り、荷物を預けて身軽になった。一人で食事をし、ぷらぷらと京都の街並みを散歩がてら見て歩く。  京都へは学生時代に来た事のある設楽だが、まったくもってどこに何があるかなど覚えてはいなかった。まあ、覚えていたとしても、十年も経っていれば街並みも変化するだろうと思う。  一度だけ地図を見て、設楽は迷う事もなく真崎の店の前へと辿り着く。紺地の暖簾を大きな手で払い、入口をくぐった設楽を出迎えたのは真崎本人だった。 「お待ちしておりました」 「ああ」 「父を呼んでまいりますので、こちらで少々お待ちください」  店の中は広く、奥の半分ほどが畳敷きになっている。そのすぐ手前のソファを真崎が示し、設楽は腰を落ち着けた。  ぐるりと店内を見回せば、設楽には縁のない反物や、仕立て上がっている着物がそこここに掛けられている。どことなく洋品店とは異なる香りがして、設楽にとっては目新しいものばかりだった。  奥へと消えた真崎を見送って、設楽は鞄からタブレット端末を取り出した。甲斐に指定されてインストールしたアプリを立ち上げれば、ビデオ通話が出来るようになっている。指示された通りにログインすれば、画面の端に文字が表示された。どうやら向こうにも通知が行くらしい。 『お手数をおかけします、設楽様。私、隼人と申します。左下の受話器のアイコンをタップして頂けますでしょうか』  丁寧な文面の指示通り設楽が動けば、画面の中央には端正な男の顔が映し出された。その男が安芸隼人(あきはやと)という名である事を、設楽は知っていた。甲斐の側近であり、甲斐がSDIのトップに立つと同時にモデルとしてデビューし、有名ブランドのCMなどにも出演している。その姿を見ない日はないと言っても過言ではないような男だった。 『お初にお目にかかります、隼人です。設楽尊様…ですね?』 「ああ」  整った口許が僅かに動き、隼人の声が端末から流れ出る。顔だけでなく声までもが涼やかで落ち着いた隼人は、確か甲斐よりも年下の筈だが、あまりにもその態度は大人びていた。 『この度はお手数をおかけしました。間もなく甲斐が参りますので、今しばらくお待ちください』 「ああ」  画面の向こうで丁寧に頭を下げて、隼人が穏やかに微笑んだ。さすがにモデルというだけの事はあって、顔も仕草も美しい。  ――何だかテレビと話してるような妙な気分だな…。  ビデオ通話になど慣れていない設楽がそんな事を思っていれば、甲斐よりも先に真崎が一人の男を伴って姿を現した。 「お待たせ致しました」  にこりと微笑んだ真崎が設楽の向かいに腰を下ろす。その隣に、男は腰を落ち着けた。スーツ姿のその男が真崎の父親であり、この店の店主である真崎征一郎(まさきせいいちろう)だろうか。 「父です。…父さん、こちらは設楽尊様です」  前半を設楽に、後半を父親に向けて言った真崎に、征一郎はまるで値踏みでもするかのような視線を設楽へと向けてきた。 「真崎、征一郎だ」 「ご丁寧にどうも」  真崎が名を告げた以上自ら名乗る必要もなかろうと、設楽はそれだけを言ってタブレット端末へと視線を落とした。折り曲げた硬いカバーに支えられて自立している画面には、まだ誰も映ってはいない。 「俺はSDIとは無関係の人間だが、訳あって会長殿から直々にあんたと取り次ぐよう頼まれた。詳しい話は、直接聞いてくれ」 「買収に応じる気はない」 「父さん…」  諫めるような口調の真崎に苦笑を漏らし、設楽は征一郎に肩を竦めてみせた。 「それは、俺に言われても困る。この店がどれだけ続いてきたのか知らんが、経営状態は俺も把握している。話くらい聞いても、損はないんじゃないのか?」  真崎の差し出したお茶を啜りながら設楽が言えば、僅かに悔しそうな顔を征一郎はしてみせる。  ――左京といい、この親父といい、随分素直だな。  設楽が思うのは、そんな事である。普段から感情を表に出さず、他人を騙すような仕事をしている設楽にとって、左京や征一郎は扱いやすい。  素直なのは美徳ではあるのだろうが、商売上それが有利に働くという事は稀有だろうと、そう思う。それに、甲斐の話によれば、この男は女好きでどうしようもないという。確かに整った顔立ちは真崎に似ている気がしなくもない。  ――自覚はあるのか。  代々続いてきた店を自分の代で潰してしまうという罪悪感はあるのだろう。そうでなければここまで悪化する前に店など潰してしまえばまだ傷は浅く済んだ筈である。それをしないのは、大抵がくだらないプライドが邪魔をするからだ。  ――よくもまぁ食い物にされずにやって来れたものだな…。  そう感心しかけて、設楽が征一郎の隣に座る真崎へと視線を移した時だった。視界の端にある画面が動く。  カメラの正面に若い男が座り、その斜め後ろに隼人が立つ。 『待たせたな』 「いや」 『真崎はそこにいるか』  甲斐の言葉には答えず、設楽は端末をくるりと向かい側へと向けてみせた。 「位置はこれで大丈夫か?」 『問題ない。感謝する』  どんな顔で感謝するなどと言っているのか、好奇心を擽られた設楽だが、画面を覗き込むような子供じみた真似など出来る筈もない。  そんな設楽の事など知った事かとばかりに、タブレットから甲斐の声が流れ出る。 『はじめまして、須藤甲斐です。この度は時間を割いて頂き感謝します』 「あ、ああ…」  設楽と話す時とは全く違う、穏やかな声。顔を見ずとも、その顔には微笑が浮かんでいるだろうと想像できるそれに、設楽は内心で舌を巻いた。  目の前で設楽との遣り取りを聞かれていた事など気にもしていないのか、それともそれすらも計算しての事なのか、甲斐は穏やかな声で幾つか当たり障りのない言葉を交わし、仕事の話に入った。  甲斐の話は、概ね今朝本人が言っていた通りのものだった。だがしかし、征一郎の方はといえば、あまり表情が芳しくはない。  ――まあ、すぐに喰い付けるくらいなら、とうに店など潰していておかしくはない…か。  聞こえてくる甲斐の声は、表面上穏やかなままだが内容はまさに買収そのもの。それでも、甲斐本人や真崎の言った通り、経営権の一部はまだ真崎の家に残すというものだった。  但し、監査役を常駐させる事と、店主の世代交代…つまり、左京に店主を継げば、という条件付きだ。  ――これだけ負債を抱えておいて、なおも諦めきれないとはな。  征一郎の顔に浮かぶ表情を、設楽は他人事のように見つめていた。仕事の話であれば、部外者である設楽が口を挟む余地はない。  と、その時だった。俄かに店の奥が騒がしくなり、和装の男が二人、座敷へと出てきた。  ――左京と、後ろが右京か。  双子だという二人は確かによく似た面差しをしていたが、雰囲気は真逆に等しい。  険しい顔の左京の腕を、弟の右京は止めようとしているようだった。 「やはり貴様かッ! 潤は東京へは戻らないと、何度言えば分かるんだ!」  もの凄い剣幕の左京に溜息を吐くと同時にタブレット端末からも同じような溜息が聞こえて、設楽は苦笑を漏らした。 『これはこれは、良いところにいらっしゃいました。お初にお目にかかります、須藤甲斐です』 「な…っ!?」 『真崎左京さん、よろしければ貴方からもお父上を説得しては頂けませんか? 私どもSDIは専属の取引先として、和服に関する一切を御社に任せたいと思っているのですが…』  些か困ったような声音で話す甲斐が、その実まったく困ってなどいないであろう事は、設楽と真崎には見え透いている。ともあれ、設楽は左京や右京にも見えるように端末の向きを変えた。これで甲斐の方からも店の状況は見える筈である。 「兄さん、甲斐様のお話は悪いものではありません。わたくしが何をしようとも現状維持にしかならない事など既にお判りでしょう? 幾つかの条件はございますが、それでも経営権の一部を残してくださると仰っているんです。どうか、兄さんからも説得してください」 「……条件は…」 『私どもSDIから派遣する監査役を常駐させる事。それと、経営者の交代を』 「交代?」 『左京さん。貴方がお父上の代わりに御社の経営を担うというのであれば、SDIは全面的にそちらをバックアップします』  これまで手を焼いていた征一郎から自分へと経営権が移るという話に、左京が絶句するのが分かる。その左京の腕を掴んでいた右京も、唖然としていた。沈黙が店に漂う中、征一郎だけが視線を逸らし、悔しそうに唇を噛んでいる。それを破ったのは真崎だった。 「兄さん、わたくしは東京へ戻ります。SDIから派遣される監査役は信頼できますし、わたくしなどより専門的な知識を持った優秀な方です。馬鹿な真似さえしなければこれまで通り、いえ、これまで以上に兄さんの思い描いていた仕事が出来ると、わたくしは思いますよ」  黙りこくってしまった左京に構うことなく、甲斐の声が真崎へと向けられる。 『真崎、追って担当者にそちらへ契約書を持たせる。お前は戻れ』 「はい。ありがとうございます、甲斐様」 『それから設楽、メールを送っておいた。すぐに確認しろ』  真崎が丁寧に頭を下げる中、それだけを言い残して端末の画面が切り替わる。ビデオ通話が終了した事を告げるアナウンスの文面が浮かぶタブレットを、左京が呆然と見つめていた。  設楽は大きな手で端末を持ち上げると、アプリを終了させてメールを開く。そこにはやはり本文も何もなく、ファイルだけが添付されていた。  ファイルを開けば、僅かな間をおいて画面にずらりと文字の羅列が浮かび上がる。その内容に、今度は設楽が絶句する番だった。  そこに表示されているのは、征一郎、それに左京と右京に関する個人情報。いったい何故こんなファイルを甲斐が送ってきたのかなど、聞くまでもなく設楽には理解が出来た。  ――恐ろしい親子だよ本当に…。  脅しのネタにもなるそれを、極道である設楽に預けるというその意味は一つしかない。ちらりと画面から上げた視線で真崎を見れば、何やら左京に声をかけていた。  これで一件落着かと設楽が腰を上げたその時だ。左京の声が店の中に響き渡る。 「お前が戻るというのは条件に含まれていないだろう、潤」 「兄さん…」 「SDIとの話は前向きに検討する。だが、俺はお前を手放す気はない」  しっかりと真崎の腕を掴む左京は、自分の脅しのネタが既に効力を失っているなどとは思ってもいないのだろう。甲斐曰く、一応才覚があるというが、設楽からすればただのガキにしか見えないもので困ってしまう。 「兄さん、いい加減にしてください。わたくしは…」 「お前が戻る場所などないと、そう言った筈だ」 「それは…」 「その手を離せ左京。お前の脅しなど、とうに通用しない」  言い淀む真崎に被せるように設楽は言って、大股で左京の元へと歩み寄った。大きさに圧倒されたのか、左京の後ろにいた右京が数歩よろめくようにさがる。  設楽が腕を伸ばそうとすれば、左京は自ら真崎を離した。 「来い、真崎」  僅かに腕を差し出せば、真崎が自らぴとりと寄り添う。それを見下ろして、設楽は満足そうに微笑んだ。 「残念だな、左京。こいつの性癖をタテにお前は脅しているようだが、そんなもんは須藤の連中は全員知ってる。もちろん、俺もな」  言いながら真崎の髪に口付けを落とす設楽に、左京の顔が険しくなる。 「嘘を吐くのも大概にしろ、そんなデマを誰が信じると言うんだ。確認されて困るのはお前だろう、潤」 「嘘ではございませんよ。雪人様も、甲斐様も、わたくしの事は既に存じ上げておいででした…。それでもなお必要だと仰ってくださる以上、わたくしは雪人様に一生お仕えいたします」  往生際の悪い左京に真崎がきっぱりと言い切れば、今度は周りの人間に言いふらすと宣う始末に苦笑しか漏れない設楽である。 「いい加減諦めたらどうだ? お前がそういうのなら、俺もお前を脅さなきゃならなくなる。なあ、真崎左京。個人的な趣味嗜好にどうこう言うつもりはないが、実の弟ってのは、拙いんじゃないのか。真崎とお前、どちらの方が外聞が悪いか、よく考えてみると良い」 「そっ、そんなもの、どこに証拠があるって言うんだ!」 「別に信じようが信じまいがどうでもいい。噂が流れるだけでも、お前は困るんじゃないのか? それに、そっちのお前の弟も…な」  設楽は、手に持ったタブレットの画面を左京へと向けた。そこには、一枚の画像が表示されている。見る間に青ざめる左京に、設楽は喉の奥で低く嗤った。  甲斐から送られてきたファイルにあった、左京と右京のキスシーン。隠し撮りされたと思しきそれは、週刊誌などで出回るようなスキャンダル写真となんら変わりはない。 「ッ…!!」  息を詰める左京の後ろで、右京が顔を覆い隠した。泣いているようにも見えるそれを見遣り、設楽は左京へと視線を戻す。 「大人しく親父を説得した方が良いんじゃないのか? お前はより安全な道を作っておきたいんだろうが、残念ながら真崎は俺のものだ。お前にこいつは過ぎた玩具だよ」 「尊…」 「帰るぞ」 「はい」  呆然と佇む左京と、未だ顔を覆ったままの右京。それに、もはや存在すら忘れられそうな征一郎を残し、真崎を伴って店を後にした。着替えるかという問いかけに小さく首を振った着物のままの真崎を連れて、設楽は京都駅へと向かう。まだ日も高い時間だ。  駅が見えてきたところで、設楽はつん…と袖を引かれた。もちろん袖を引いたのは真崎で、その顔がほのかに赤い。 「尊…、わたくしと少し…デートをしてくださいませんか…?」 「あ?」 「美味しいお抹茶を出すところがあるんです」  そう言った真崎に設楽が連れていかれたのは、どこかの家のような場所だった。家というよりは、屋敷と呼ぶ方がしっくりはくるのだが。  玄関の横を素通りし、建物の裏手へと回る真崎についていけば庭へと出る。小さな庭園といった趣のある庭の奥へと、真崎はどんどん進んでいってしまう。 「お前の家か?」 「いいえ。友人の家です。茶室を、お借りしておりまして」 「美味い抹茶って、まさかお前が点てるのか?」 「はい」  設楽が茶道の心得などないと言えば、あっさりと真崎が笑う。 「わたくししかおりませんし、作法は気にしなくて大丈夫です。ここは茶室から見るお庭がとても綺麗なんですよ?」  本来なら先に茶室で待っているだろう主人の姿はなかった。真崎の後に続いて狭い躙り口を些かならず窮屈そうに通り抜け、設楽は丸い窓から見える景色に一瞬目を奪われる。そこには、緑が溢れる中に薄紅色の花を満開に咲かせた桜の木が一本、植えられていた。 「ね? とても素敵でしょう?」 「ああ」 「わたくしのお気に入りの場所なんです。どうしても、戻る前に尊に見せたくて…。時期も、ちょうどよかったですし」  嬉しそうに言いながら茶を点てる真崎は、作法など知らない設楽が見ても美しい所作だと分かる。 「崩してくださっても構いませんよ。尊の、楽なようになさってください」  一口茶を啜り、脚を崩した設楽へと真崎がしな垂れかかった。胸元へ寄り添いながら景色を眺める真崎を、設楽は見下ろす。 「このために着替えなかったのか?」 「はい。ですが、この家にも用事がございまして…」 「用事?」 「ええ。ここに、少し荷物を預けてあるんです。実家に持ち込むと、兄に見られてしまう恐れもございますので」  聞けばこの家の家主は真崎の幼馴染なのだという。 「千阪景次(ちさかかげつぐ)というのですが、少々変わり者でして…、兄の性格もよく知っております」 「お前に変わり者なんぞ言われるなら相当だな」 「尊は酷いですね…。わたくしはそう変わっていますでしょうか…?」 「変態ってだけで充分変わり者だろうが」  呆れたように笑えば、真崎が拗ねたように胸元へと指を這わせた。その仕草が妙に色っぽくて、設楽は些か参ってしまう。 「それでも…、尊はこうして迎えに来てくださいました…。わたくしは…どれほど嬉しかったか…」 「今度勝手に居なくなったら、そん時は捨てるからな」 「もう二度と…このような真似は致しません…」  目を伏せる真崎がそう言った時だった。ガタガタと躙り口の戸が開く。随分と手荒いものだと眺めていれば、一人の男がひょっこりと顔を出した。  色素の薄い髪と、僅かに緑がかった目。肌は透けるように白く、その手首は設楽などが掴んだだけで折れそうなほどに細かった。全体的に小柄な男だ。 「人の家の茶室をラブホ代わりにするなよ、潤」 「景次…」 「おっ、あんたが噂の飼い主様やんな?」  儚げな外見とは裏腹に、はすっぱな口調は関西訛りが入り、妙にアンバランスな男が千阪景次というらしい。『よいせっ』と声をあげながら茶室へと入り込んだ景次は、設楽のすぐ横に正座をして丁寧に頭を下げた。 「はじめまして、潤の幼馴染の千阪景次言います。どうぞよしなに」 「設楽尊だ。丁寧にどうも」  設楽が言えば、畳に両手をついたままの景次がパッと顔を上げる。その目には、明らかな好奇心の色が煌いていた。そう、まさしく煌くというように目を輝かせ、感情を隠そうともしないのだ。 「なあなあ、設楽はんは潤のどこに惚れたん? やっぱ顔やんな? こいつ昔から顔だけは男前やしなぁ…。あ、でも設楽はんも男前やんな? こりゃ潤が惚れるのも頷けるわなぁ。ははっ」  普通に座っても見下ろす事になるであろう体格差。その上両手をついたままなものでだいぶ下から見上げてくる景次を、設楽は困ったように見下ろした。応えあぐねていれば真崎の凛とした声が響く。 「景次、尊を困らせないでください。わたくしの主人に失礼な真似は許しませんよ」 「へぇへぇ、邪魔者は退散するとしますかねー。潤、俺ちょっと出なきゃならなくなったから、預かったものは明子(あきこ)さんに出してもらってなー。ほな、ごゆっくりー」  幼馴染というよりは兄弟のような遣り取りに設楽が面食らっていれば、景次はそう言って畳に手をついたまま後ろ向きに退がって茶室を出て行った。どうやら、外出するので知らせに来たらしい。  再びゴトゴトと音をさせながら景次が出て行った躙り口を見つめる設楽の袖を、真崎が引いた。 「お騒がせしてしまってすみませんでした…」 「いや…随分賑やかな男だな」 「はい…、昔から景次はあんな感じでして…」  幾分か困ったように言う真崎に苦笑を漏らし、変わり者だという言葉が事実であると設楽は知った。なんというか、外見とのギャップが凄まじい。  賑やかな闖入者が去った後、再び静寂を取り戻した茶室で真崎と庭を眺め、とても穏やかな時間を過ごす。駅からそう離れてはいない筈だが、信じられないほどに静かだった。 「普段はあんな感じですが、お茶やお花のお稽古の時は別人なんですよ?」  真崎曰く、景次は外見のせいで稽古場で見初められ、外で会った途端に女性に振られるなど日常茶飯事なのだという。設楽からすれば、それはそれでどうかと思う話ではあるのだが。  話を聞けば、真崎よりも一つ年上だというから驚きである。どう見ても、真崎と景次が並べば真崎の方が年上に見えるだろう。  ともあれ、景次の言葉に甘えてそれから少しゆっくりし、真崎に連れられて母屋に行けば、妙齢の女性が奥から姿を現した。和服に身を包み、髪をきっちりと結い上げたその女が景次の言っていた明子だという事を、真崎が名を呼んだことで設楽は知る。 「ご無沙汰しております、明子さん」 「あらあら、お久し振りでございますね潤さん。そちらは?」 「設楽尊様です。……その…わたくしの大切な方でして」  おや…と、僅かに眉をあげた明子は、だがすぐにその顔を破顔させた。どうにもその様子が訳知り顔で、設楽は反応に困る。 「それはようございますね。とてもお似合いですよ、潤さん」 「ありがとうございます」  真崎から視線をこちらに移した明子はにっこりと人の良い笑みを浮かべて頭を下げた。 「小日向明子(こひなたあきこ)と申します。千阪の家とは昔からお付き合いがございまして、景次さんのお世話をさせて頂いております」 「ご丁寧にどうも。設楽です」 「景次さんと潤さんは幼少より仲が宜しくてねぇ。私としても息子のようなものでございます。どうぞ、大事にしてやってくださいな」 「明子さん…っ」  慌てる真崎に明子は悪びれる様子もなくころころと笑い、預かっていた荷物を持ってくると奥へと引っ込んだ。  らしくもなく額に手をやって項垂れる真崎を見下ろし、設楽は苦笑する。 「お前のそんな姿も珍しいな」 「普段のわたくしは…、こんなものです。呆れてしまわれましたか?」 「いいや?」  雪人のそばに仕える真崎は一部の隙もない。だが、設楽の前では可愛らしい顔も、まあ妙な性癖も曝け出す真崎である。意外な貌に驚きはしても、呆れたり嫌うといったような感情は、設楽にはこれっぽっちも沸いてはいなかった。 「むしろ面白い」 「…っ、尊…!」 「そう拗ねるなよ。お前を知っていくのは嫌いじゃない」 「尊も…、尊の事も教えてくださいますか?」 「そのうちな」  付き合いも長くなれば自然とお互いを知ることになる。設楽も真崎も、仕事が仕事である故にそう多く時間を共有できる訳ではないが、そのくらいが自分たちにはちょうどいいのではなかろうか。  ――普通にしてればいいものを…。どうしてあんな妙な性癖を持ったんだか…。  隣から見上げてくる真崎を見下ろし、切実にそう思う。とはいえど、真崎の偏った性癖は、その方向故にそうそう無理が利くものではない。真崎自身がどうであろうと、人の躰には限界というものがあるのだ。真崎自身もその辺は弁えて居る以上、一度満足させてしまえば後は設楽にとってこれ以上ないほど可愛らしいのも事実だった。  ――帰って親父に揶揄われるくらいは、我慢するか…。  設楽にとって、真崎の家が今後どうなるのかなどは知った事ではない。もちろん真崎から話をされれば聞くつもりではあるが。だが、真崎の性格を考えれば、これ以上関わる事はないだろうという予感がしている。  今回成り行きで真崎を取り巻く環境を垣間見る事になった設楽としては、仕事上ではあまり関わりたくないというのが正直なところである。須藤の連中は、一介の極道などには些か荷が重い。  ともあれ真崎を連れ帰るという目的をしっかりと果たせそうな事に設楽は安堵した。

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