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第31話
「いえ、そのような配慮は当然で御座います。『神殿は中立』が各国の不文律になっておりますので、このような事が漏れてしまうと、この神殿も――しかもここは山の頂上に有るとはいえ――国境近くでもありますので、不敬をも犯すほどに逆上した王に攻め込まれるようなことにでもなれば、このファロスは死んでお詫びするしかなくなります」
ファロスの切々とした低い声がキリヤには灯火よりも光を放っているような気がした。そしてその薄く凛々しい唇を見ていると、先ほど生まれて初めて交わした接吻の余韻が銀の鈴を鳴らしたような感じで脳裏に涼しげでいながら熱く鳴り響いてしまっていた。
禊《みそぎ》の後に接吻を強請ってしまったのは、紛れもなくキリヤ自身の気持ちだと、この私室――禊を行う聖なる場所ではなくて、この空間はキリヤの気配しか感じない。
とはいえ、人ではない戦さ神の思し召しは神殿をあまねく覆っているのかも知れないので、確たることはキリヤ自身にも分からなかったのも事実だったが。
一つだけ確かなことは、キリヤの私室に招いて――ここで神の気配を感じたことは皆無だった――親しく語り合いたいと思ったのはファロスが初めてだった。そして、食事を共にしたい……。と思った瞬間、己の不手際に再び気付いて心臓が冷たくなるような気がした。
「料理がすっかり冷めてしまった……。先に食べれば良かったな……」
キリヤ様の白鳥を彷彿《ほうふつ》とさせる首がうなだれている。
「いえ、話に夢中になってしまった私が悪いのです。それに聖神官様の日常などはあいにく存じ上げませんが、国王陛下との晩餐会の時には毒見役も控えておりますし、厨房からは遠いので山海の珍味も冷え切っております。
ある意味慣れているのでお気になさらず」
ファロスの微笑みはまるで太陽の光のようにキリヤを照らすような気がした。
「神殿では毒を盛られる心配はない上にこの奥の間は、神官や聖神官の私的な空間なので厨房からも近いから温かい食事が出せたのだが。
ファロスの館ではどのような食事をしているのか?」
キリヤは先ほどのテーブル――ジャスミン茶も料理もすっかり湯気を失っていた――へとファロスを誘いつつ、呼び鈴に繋がっている紐を引いた。知る限りで最も気の利いた助修士にこの文をしかと頼もうとして。
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