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第5話

 漆黒(しっこく)は双眸を険しく歪めた。 「待て、待て待て。あんた、正気で言ってんのか?」  太腿の上に肘を置き、前かがみになった姿勢で、目の前の男を睨みつける。  楼主は懐手した腕をゆったりと組んだまま、唇に挟んだ煙管(キセル)を上下に少し揺らした。 「あん? なにかおかしなことを俺が言ったか? ここは遊郭で、性を売るのが手前(テメェ)の仕事だろうが」  わざとらしく首を傾げられ、漆黒は苛立ちを覚えた。 「どう見ても未成年のガキを抱けって? 犯罪だろうが」  吐き捨てたその言葉に、楼主の笑い声が被さる。 「ははっ。淫花廓(ここ)ではそれがゆるされる。だからこその、遊郭だ」 「ふざけるなよ」 「それは俺のセリフだ。なぁ漆黒。おまえはここの男娼だろう。手前(テメェ)の仕事をしろと、俺はそう言ってるだけだぜ? なにをそんなに渋ることがある」 「…………ガキは守備範囲外だ」 「舐めた口きいてんじゃねぇぞ」  楼主の声がワントーン低くなった。  ここで男の機嫌を損ねても、漆黒に利はない。  楼主の、底の見えぬ深い色の瞳を見ながら、漆黒は目まぐるしく頭を働かせた。  漆黒がこの話を断固として跳ねのけたとして。  得るものといえば楼主の不興だけではないか。  それとも……試されているのだろうか……この男に。    漆黒が、真実、淫花廓(いんかかく)の男娼であるのか。  はたまた、ゆうずい邸に潜り込んだ(ネズミ)であるのか。  試されて、いるのだろうか……。    漆黒は過去の自分を棄て、いまここに居る。  やくざと揉め事を起こし、借金にまみれ、淫花廓に身売りした。  ここに潜り込むための設定ではあったが、やくざに殴られたのも借金をしたのも事実だ。  淫花廓に潜入するために背負った苦労は、並大抵ではない。    それを。  こんな、ガキのために棒に振るわけにはいかなかった……。  やめろ、と。  警察官であった頃の己の良心が叫んでいる。  こんなガキを抱くつもりか。  犯罪だ。  やめろ。  わんわんと耳の奥に響く自分の声を、男娼である漆黒が抑えつける。  いまは警官(おまえ)の出番じゃねぇ。ちょっと黙っとけ。    手の中のタバコの箱を、ぐしゃりと握りつぶして。  漆黒は少年へと目を向けた。    (あずさ)、という名の彼は、漆黒の視線に気づいたのか、またおどおどと小さく頭を下げてくる。    梓はいったいどういう経緯で……こんな場所に来たのか。  自分がなにをされるのか、ちゃんと理解しているのだろうか。 「……わかった」  押しつぶしたようなしゃがれた声が、喉から漏れた。  漆黒の返事を聞いた楼主が、僅かに目を細めた。 「最初(ハナ)っから素直にそう言ってりゃいいんだよ」 「だが、泊まり込むのはなしだ」 「あん?」 「あんたもよくわかってんだろうが。ゆうずい邸の下の連中はフラストレーションが溜まってる。そんな中で、こんなヒョロいガキがうろちょろすれば、恰好の餌食になる」    ふぅ、と唇から紫煙を吐き出して、楼主が呆れたように肩を竦めた。 「そうならねぇように、四六時中手前(テメェ)が付き添ってりゃすむ話だろうが。梓がひと月ここで暮らすのは決定事項なんだよ。わかったらさっさと部屋へ連れて行け」  男がクイ、と顎で扉を指し示した。    四六時中、という言葉に、漆黒の中にまた疑念が湧いた。  やはり男は、漆黒に疑いをかけているのか……。  梓を漆黒に付けることで、漆黒の動きを封じようとしているのだろうか。  それとも梓が、見張りなのか。  いや、ただの見張りであるならば、男衆で充分であろうし、わざわざこんな子どもを用意して性技を仕込めなんて話をする必要はない。  漆黒は顎髭をざり……と親指の腹でこすって、嘆息を漏らした。   「ひとつ、聞いていいか」 「言ってみろ」 「そのガキ……梓か……そいつは了承済みなんだろうな?」  漆黒の問いかけに、楼主が小さく鼻を鳴らし、「梓」と少年の名を呼んだ。  梓が、癖のない黒髪をさらりと揺らして、猫背気味の背をますます丸め、ぴょこんと頭を下げた。 「ぼ、僕、ぜんぶ、わかっています。大丈夫です」  声変わりは済んでいるのだろうが、不思議な透明感のあるトーンで、彼はそう言った。    本当にわかっているのだろうか、と漆黒は重苦しい気分になったが、それを払拭するために瞬きをし、ゆっくりと立ち上がった。  煙管を咥えたままこちらを見上げてくる楼主へと、これみよがしなため息を吐いて、髪をかきあげる。  仕方ない。  腹を括るしかない。 「梓。ついて来い」  少年に、そう声をかけて。  漆黒は挨拶もせずに、応接室を後にした。  背後からは、子犬のような足取りで、梓が小走りに漆黒を追ってきていた……。         

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