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第7話

 (あずさ)は施設育ちだ。  親の顔は知らない。気付けば施設で他の子どもたちと一緒に暮らしていた。  名字は田中。田中、梓。  この施設に居る子どもは大体が、田中か鈴木か木村であった。    施設には、黒服の男たちが度々出入りしていた。  情報通の年長組の言うことには、ここは暴力団の慈善事業の一環として経営されている孤児院との噂だった。  院内には学校もあり、ここで暮らす子どもや、余所(よそ)の……不登校の子どもたちがそこに通った。  物静かな梓の一番の親友は、理久(りく)だ。  同室で、二段ベッドの下に、理久。上が、梓。  消灯の後も、小さな声で2人で色んな話をした。    理久は体が弱くて……喘息持ちだったため、部屋の湿度や温度を調節するのは梓の役目だった。  理久の胸が嵐のような音を立てる度に、梓は彼の痩せた背中を撫で、早く治まりますようにと祈った。  発作を起こしたその日は、2人でひとつのベッドに寝た。  孤児院で暮らす子どもたちは皆、一度は殴られている。  大人たちのほとんどは、手を上げたりはしなかったが、クマというあだ名の男だけは虫の居所が悪いとよく暴力を振るってきた。  あだ名の通り大柄で、威圧的な男だ。  他の大人は見て見ぬふりを貫くため、子どもたちはクマに遭遇しないように自衛しなければならなかった。  しかし、逃げ遅れる子どもは居る。  体の弱い理久などは、機敏に走ったりができない。そのためよくクマの標的になっていた。  だから梓はいつも、理久を庇い、理久の分までクマの平手を受け入れた。  クマは大きいから……小柄な理久では全身の骨が砕けるんじゃないだろうかと、恐ろしかったのだ。    梓が殴られる度に、理久は泣いていた。  そんな理久を抱きしめて慰めるのも、梓の役割なのだった。    梓が17歳になったある日。  院長室に呼ばれた。  梓は悪戯などもしたことがなければ、敷地内の畑の手入れも積極的に行ったし、褒められることはあっても怒られたことなどなかったので、初めての呼び出しにものすごく緊張しながら、扉をノックした。  中には、院長の他に3人の男が立っていた。  ひとりは扉のすぐ横に居て、そんなところにひとが居るとは思わずに、梓は驚いてしまった。  応接用のソファに座ったスーツの男がゆったりと立ち上がり、梓の正面へと歩み寄って来る。  男の手で顎を掴まれた。  突然のことに梓は抵抗もできずに、ただ両目を瞬かせた。 「いいじゃねぇか」  男が鷹揚に頷いた。院長よりも、年配なように見えたが、大人の男の年齢はよくわからない。50代か……60代ぐらいだろうか。  この男が一番偉いのは確実なようで、 「よし、こいつでいい。手筈通りやってくれ」  と男に告げられた院長が、へこへこと何度も頭を下げていた。    男たちはすぐに帰って行った。  一体なにがなんだったのか状況が理解できなかった梓は、しばらくポカンとしていたが、院長に名を呼ばれ、ハッと我に返った。 「梓。きみに行ってほしいところがある」 「……なんでしょう?」 「先に言っておくが、きみが断れば、この話は理久に持って行くことになる。いいね?」 「……は、はい……」  梓が受けた説明は、理解しがたいものだった。  とある目的のために、淫花廓(いんかかく)という場所へ行って、性技を習って来い、と。 「先ほどの御方はここのオーナーだ。あの方の命令に背くと、ここの存続が危うくなる。そうなれば理久を医者にかからせることも難しくなるぞ」  院長の言葉に、梓は忙しない瞬きをした。    生まれたときからここで暮らす梓にとって、この孤児院の者は皆家族であったし……その中でも理久は、双子の片割れの如き存在であった。  大好きな理久。  体が弱く、儚いように笑う理久。  梓が断れば、理久にお鉢が回ってしまう。  そんなことは、させられなかった。  梓はぎゅっとこぶしを握り締めた。 「ぼ、僕が行けば……理久のことは、ちゃんとしてくれるのですか?」  梓の問いかけに、院長が何度も頷いた。 「もちろんだ。きみがちゃんと役目を果たせたら、理久をもっといい病院へも連れて行ってやれるよ」    院長の言葉で、梓は覚悟を決めた。    そして梓は、大人たちに連れられて、淫花廓を訪れたのである……。    狭い社会で生きていた梓にとって、これまで『性』というものはほぼ無縁であった。  孤児院には女の子もいたし、付き合っている子たちもいたようだが、梓は理久と一緒に居る方が楽しかったし、いつ発作が起きるかわからない理久の世話を焼くのに忙しかった。  だから梓は、性技を学べ、と言われても具体的なことはほとんどイメージできないのだった。  ただ、男である自分が、抱かれる立場になる、ということは理解していた。  なにをさせられるのだろうか。  痛いのだろうか。  怖いのだろうか……。  不安はどんどんと梓の中で膨らんでゆく。  けれど梓は、どんな目に遭ったとしても……。  孤児院で暮らす子どもたちの生活を……理久の平穏な日常をまもるために、絶対に耐えるのだ……。  そんな決意を胸に、限界まで膨らんだ風船のような不安を抱えていた梓は、しかし、いま。  格好いい大人の男のひとに。  蕩けるような口づけを受けていた。  漆黒(しっこく)、という名の、和服の良く似合う顎髭の男性は。  梓の顎を、やさしく掴んで。  ちゅ、ちゅ、と梓の唇を吸って来る。  唇の隙間に、男の舌が入ってきた。    苦いタバコの味が……梓の口の中に広がる。    ぬるり、と動いた男の舌が、梓のそれに絡みついた。 「ん……」  息が苦しくなって、梓は首を振った。  合わさったままの漆黒の唇が、ふっと笑った。    くちゅ……と濡れた音を立てて、口づけがほどかれる。 「鼻で息しろよ。酸欠になるぞ」  鋭いような双眸が、やわらかく(たわ)んで。  耳に心地良いバリトンの声が、そう囁いた。  ぞくり、と梓の背筋が震えた。それは、甘い震えであった。  男の唇が、また下りてくる。  梓は目を閉じて、タバコの味のキスに……溺れた。      

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