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第12話

「なんだ、青藍(せいらん)か」  と、漆黒(しっこく)が青年をそう呼んだ。  青藍が(まなじり)を下げて、苦笑をひらめかせる。その笑い顔が、どことなく犬を連想させた。 「なんだはないっしょ。漆黒さんが若い子部屋に連れ込んでお籠りしてるって、もっぱらの噂っすよ」 「なんだそりゃ……女みたいに噂好きな奴ばっかりだな、ここは」  ふぅ、と吐息した漆黒が、湯呑みに手を伸ばして茶を啜る。 「しょうがないっすよ。娯楽なんてないし」  明るい笑みを見せた青藍が、そこで初めて梓と目を合わせ、軽い会釈を寄越した。 「隣、いいすか?」 「あん? どこでも空いてんだろ」 「だから、ここで。……お願いします」  青藍が、背後を振り向いてそう言った。  彼の後ろには、翁の面を着けた黒衣の男が控えており、彼の言葉に頷くと一度部屋を出て行った。 「なんだ?」  梓が首を傾げる前に、漆黒が青藍に問いかける。  青藍は、人懐っこい犬のような笑顔を浮かべて、頭をポリポリと掻いた。 「いや~。俺、今度篠村(しのむら)の奥様のお供で会食に行かなきゃなんないんすよ~。和食、久しぶりなんで、(おきな)にチェックしてもらおうと思って」  梓の隣の座椅子に胡坐をかいて座った青藍が、屈託のない口調でそう説明した。  彼の言葉に、漆黒が唇の端を皮肉気に持ち上げる。 「はっ。おまえは箸の使い方がなってねぇからな。篠村さまもよく、おまえ如きを指名する」 「や~、ここだけの話、最初は紅鳶(べにとび)さんをって言ってたみたいで。でも紅鳶さんはその日は都合つかなかったんすよね」 「なんだ、紅鳶のバーターか」 「いやいや、バーターのバーター。紅鳶さんがダメなら、漆黒さんを、って。でも、漆黒さん、忙しいじゃないすか」    くりくりと良く動く目が、チラ、と梓へ向けられた。  梓はどきりとして、思わず手を止めてしまう。  小鉢に触れたままの梓の箸先を、漆黒が視線だけで咎めてくる。  ハッと、箸を握り直し、梓は指のポジションが崩れないように意識しながら、せっせと料理を口に運んだ。  漆黒はすでに食べ終えている。  決してがさつな食べ方ではないのに、スピードは速かった。  きれいな色のお茶をぐびりと飲んだ男は、着物の袂を探ってタバコの箱を取り出した。  漆黒がタバコを一本唇に挟むのと同時に、先ほどの能面の男だろうか……皆同じ服装で髪を剃り上げているため区別がつかない……彼が、青藍用の膳を運んでくる。  青藍が、表情を引き締めて、 「いただきます」  と両手を合わせてから、箸を手に持った。  青藍の食べ方は豪快だ。  口も大きく、ばくばく、と効果音を付けたくなる。でも、下品ではない。見ていて気持ち良い食べ方だった。  彼を眺めていた漆黒が、喉の奥で低い笑いを漏らした。 「なんですか?」  眉を顰めた青藍の、折り曲げた膝を、漆黒が斜め向かいから長い足を伸ばして蹴った。 「口に物を入れながらしゃべるな」    梓は、自分が言われたような気分になって、思わず口を手で押さえてしまった。  それからそろそろと隣を窺うと、青藍越しに、翁面がこくこくと頷いているのが見えた。  漆黒は、ふぅ、と紫煙を吐き出し、 「おまえの箸の握り方、梓といい勝負だな」  と、笑いを含んだバリトンで青藍へと声をかけた。  青藍はもごり、と口を動かし……先ほどの注意を思い出したのか咀嚼のスピードを速め、ごくりと嚥下した後、唇を尖らせて漆黒へと詰め寄る。 「どういう意味スか?」 「箸の握り方がぎこちなく見えるっていう意味だよ。いま矯正中の梓はともかく……散々翁に仕込んでもらってそれじゃあ、翁も業腹だろ」  漆黒の言葉に、今度も翁面の男がこくこくと頷いた。先ほどよりも、ちからが籠っているいるように見える。  青藍はバツが悪そうな顔になり、そのまま無言で食事を続けた。彼が犬であったなら、その尻尾はしおしおと下がっていたことだろう。  梓は自分も怒られないように、食事に集中し、米粒を残さないようにして最後のひと口を平らげると、箸を置いて手を合わせた。  漆黒が、残さず食べた梓を褒めるように、目尻にしわを寄せて微笑みかけてくる。  梓はドキドキと落ち着かない気分になって、湯呑みのお茶を飲み干した。    青藍の斜め後ろに控えていた翁面が、音もなく動き、すぐに急須を持ってくると、漆黒と梓の湯呑みにお茶を注ぎ足してくれる。 「あ、ありがとうございます」  梓がぺこりと頭を下げると、能面の男は無言で首を振った。 「そう言えば……」  梓よりもずっと後に食べ始めたはずの青藍が、パクパクパクと三口で椀物を空にし、口の中もきれいになくしてから漆黒へと声を掛けた。  二本目のタバコに火を点けた漆黒が、眉を上げて言葉を促す。 「昨夜、涼香(すずか)さまがお見えでしたよ」    青藍が口にしたその名に、くつろいでいた漆黒の目がわずかに鋭くなったことに、梓は気付いた。  なんだか、ヒリリと尖ったような空気を、男が纏う。 「涼香……? 昨夜来たのか? 誰が相手した」 「俺っす」  青藍が、箸を持ったままの手をひょいと上げ、すぐに「青藍さま!」と翁に叱責された。おっと、と呟いて箸をそっと戻した青藍は、ぬるくなった茶を啜ってから話を続けた。 「漆黒さんはひと月先まで予約で埋まってます、って言ったら、代わりに俺を指名してくれました」 「そうか……蜂巣(ハチス)は?」 「涼香さまお気に入りの、いつもの部屋です」 「まったく、あいつは……」  漆黒が吐息とともに紫煙を吐き出した。  梓は彼のその、苦虫を噛み潰したような顔を、見るともなしに眺めた。  涼香……とは、誰だろう。  ここは遊郭なのだから、当然ながらお客様の名前だろうけど……漆黒は、呼び捨てにしている。 「涼香さまはね」  不意に、横から声を掛けられて、梓は驚いてそちらを見た。  片手を口元に添えて、内緒話をするように、青藍がこっそりと囁いてくる。まるで、幼い子どもに話しかけるような、やわらかなトーンだった。 「涼香さまは、漆黒さんの本命なんだよ。バリバリのキャリアウーマン、って感じの美人なお姉さん」    ひそひそとした声音だったが、漆黒の目の前で行っているため、もちろん筒抜けだ。  漆黒は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、青藍の言葉を否定したりはしなかった。  梓は……膝の上に置いた両手を、無意味にぎゅっと握りしめた。    そうか、漆黒には、本命が居るのか……。  大人だし、当然だ。  それにこんなに格好いいのだから、もう、その涼香さまと結ばれることは、決まっているのだろう。  梓が居なければ……昨夜、彼は、涼香を抱いたのだ……。    ぎゅううっと、喉の奥が苦しくなって、梓は無意識にそこをさすった。  どうしたのだろうか。  まるで、喘息の発作を起こす直前の、理久(りく)のような己の動作を、梓は訝しむ。  なぜ、こんなところが苦しくなるのだろうか。 「どうした、梓?」  バリトンの声が、梓に向けられた。  梓がハッと顔を上げると、眉を寄せた漆黒が、じっと梓を見ていた。 「な、なんでもありません」  梓が首を横に振ると、漆黒の目が探るように細まり……それから、じわりと笑った。 「よし、飯も済んだし、散歩に行くか」  タバコを灰皿に押し付けて、漆黒がゆったりと立ち上がった。 「は、はいっ」  梓も慌てて畳の上に立とうとして……足の痺れに気付き、バランスを崩した。 「わっ!」  よろよろと足を踏み出した梓は、そのまま転びそうになる。  その梓の体へと、ちから強い腕が回された。  驚いて振り仰ぐと、すぐ隣に漆黒が居て……。  彼は、苦笑いをしながら梓を見下ろしていた。 「まずは正座に慣れねぇとな」 「は、はい……すみません……」  俯いた梓の髪を、男の大きなてのひらがくしゃりと撫でる。    服越しに、密着した漆黒の体温を感じ……梓は、己の肌がカッと熱を持つのを感じた……。            

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