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第13話

 淫花廓(いんかかく)の敷地は広い。  (あずさ)がいま出て来た、古い旅館のような……それでいてどこかみだりがましい雰囲気の漂う……建物は、ゆうずい邸、という名前だと教えられた。  ゆうずい邸の横には、川が流れている。  川を挟んだ対岸には、ゆうずい邸よりもひと回り小さい建物があった。あちらは、しずい邸。  けれど、川には橋らしきものはなく……どうやってあちら側に行くのだろうか、と梓は首を捻った。   「梓」  漆黒(しっこく)に呼ばれて、慌てて彼の後をついて歩く。 「部屋の外では、俺からあまり離れるなよ」  角下駄をカラカラと鳴らしながら、漆黒がそんなことを言った。  どういう意味だろうか。  梓が迷子になると思われているのだろうか。    必要以上に子ども扱いされているようで、梓の頬がカッと熱くなった。  けれど梓は反論せず、「はい」と頷く。    2人は並んで、石畳の上を歩いた。    ゆうずい邸を中心に、放射線状に伸びる道が幾本かある。  真っ直ぐに伸びるその石畳の廊下の途中には、小道が交互に横に伸びていて……その先に、蜂蜜色の屋根が見え隠れしているのだった。  梓は左右をきょろきょろと見ながら足を運ぶ。  自然に囲まれた淫花廓であったが、それらはすべて、きちんと人の手で整えられていた。    道中、能面を着けた男と何回かすれ違った。  あれは、男衆、と呼ばれる下働きの人間らしい。  怪士(あやかし)面と(おきな)面の二種類を既に梓は見ていたが、どうやら面によって役割が少し違うようだ。  怪士は、いつも漆黒の部屋に食事を運んだり、洗濯物を持って行ったりしてくれるので、雑事を担当しているのだろう。  翁は、先ほど青藍(せいらん)の箸使いなどを注意していたことから、教師的な役割なのだと、梓は認識した。 「こっちだ」  漆黒が、不意に小道の方へと折れ曲がった。  小道には、飛び石が打ちこまれている。  それを辿るように歩く漆黒の後を、梓は雛鳥のようについて行った。  道の行き止まりには、六角形の建物があった。  来る道すがら見えていたのは、どうやらこの建物の屋根のようだ。 「蜂巣(ハチス)、ってんだ。蜂の巣みたいに、六角形だからな」  漆黒が、蜂巣の屋根を見上げながら、梓にそう教えてくれた。  蜂巣……そう言えば先ほどの漆黒と青藍の会話にもその単語が出て来ていたが、あれは建物の名前のことだったのか……。  漆黒が外の景色を確かめるようにぐるりと顔を巡らせ、おもむろに蜂巣の扉を開いた。 「梓。見学させてやる」  そう言って、男が先に中へと入ってゆく。  梓は彼について、蜂巣へと足を踏み入れた。  部屋には、大きなベッドやアンティークな箪笥、花の形を模したランプ、丸テーブルにソファなどが居心地よく配置されている。  壁にはめ込まれた大きな丸窓には黒い格子が付いていて、その隙間からバラのアーチが見えた。洋風の部屋に相応しい庭園であった。  しかし、窓外(そうがい)から目を転じてみれば、天蓋付きのベッドだ。  遊郭、という場所を思えば、ここは客と男娼がをするための部屋なのだと、自ずと知れた。  梓は……どんな顔でそれを見ればよいのかわからず、存在感のあるベッドからぎくしゃくと目を逸らした。    そんな梓を鼻で笑って、漆黒が、 「ここの風呂は大理石(マーブル)で、評判がいいんだ。せっかくだから見て来いよ」  と、浴室だろう扉を指さして梓を促してきた。  特に見たいとも思わなかったが、せっかくの申し出なので、梓はバスルームへと行ってみた。  スライドドアを開けると、なるほど、円形のバスタブが嵌まっている台座や壁が、大理石でできている。  梓は物の価値がよくわからないのだが……漆黒が見て来いと言うほどなのだから、恐らく高価なのだろう。  つるつるの手触りの表面を、梓は二度、撫でて……それ以外に特にすることもなく、バスルームを後にした。  ベッドルームへと戻ると、漆黒が箪笥の引き出しを閉めているところだった。  漆黒はハッとしたように梓を見て……それから目尻にしわを寄せて軽く笑った。 「なんだよ、もういいのか?」 「は、はい」 「お子様には、良さはわからねぇか」  くつくつと喉奥で笑った男が、着物の袂を探り、タバコの箱を取り出した。  そこから一本抜き出そうとする漆黒の動作を、梓は見るともなく眺めた。  いつも、少しタバコの匂いのする、節の高い漆黒の指。  大人の男そのもののような漆黒の手の動きは、無造作でいながらどことなくうつくしくて。梓はつい、見てしまうのだった。   そこを注視していると、ふと、彼の手にタバコではない……なんだろう、小さく折りたたまれた紙だろうか……ものがあることに気づいた。  漆黒はそれを、タバコを引き抜くのと入れ違いに箱の中に押し込んだ。  そして、何事もなかったかのように、ライターで火を点けて喫い始める。 「よし、行くか」  一本の半分までを灰にしてから、携帯用の灰皿にそれを捨て、漆黒がそう言った。  梓はまた、来た道を彼とともに引き返した。  こころなしか、少し急いでいるような足取りだ。  梓は置いて行かれないように、歩くスピードを速めた。  漆黒の目は前を向いたままで……行きと違って、梓の方を気にしてはくれなかった。  早足で飛び石の道を辿り、石造りの渡り廊下と合流したところで、 「おや?」  と不意に甘やかな声が掛けられた。  梓と漆黒は足を止め、同時にそちらへと顔を向けた。  そこには、嫋やかに黒い女性物の着物を纏った……金色の目の鬼の面を着けている人物が立っていた。  彼女……いや、彼、だろうか、そのひとの背後には、巨躯の怪士面の男。  梓はポカンと、その二人を見た。 「こんなところには似つかわしくない、可愛い子どもが居るね。しずい邸から、迷い込んで来たのかな?」  ふふ……と吐息するような笑いとともに、鬼の面のひとが言った。 「般若(はんにゃ)」  漆黒が、眇めた目をその面へと向けて、短くそう呼んだ。        

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