15 / 54

第14話

 漆黒(しっこく)(あずさ)を伴って、淫花廓(いんかかく)の敷地を歩いていた。    部屋の外ではあまり自分から離れるな、とこの子どもに言ったのは、べつに梓の迷子を心配したわけではない。  梓にとって、ゆうずい邸があまり安全な場所ではないからだ。  先ほど食堂で一緒になった青藍(せいらん)や……それこそ名前が出て来た紅鳶(べにとび)などは、ゆうずい邸でも指折りの男娼たちで、彼らであれば特に心配することはない。  しかし、人気の劣る下の者たちはいつもフラストレーションが溜まっていて、それが単なる小競り合いとして発芽している分には構わないが、ここには不似合いの、線の細い少女のような梓に対してそれらが向けられないとは限らないのだった。  言うなればゆうずい邸は、肉食獣の檻で……梓は見るからに捕食対象者なのである。    けれど、ひと月もの間梓を漆黒の部屋の中だけで留めておくのは可愛そうで。  漆黒は、自分自身の気分転換も兼ねて、梓を散歩へと誘ったのだった。  梓は小鴨のように、漆黒の後をついて来る。  細い足を動かす度に、白い服の裾がふわふわと動いた。  そうだ、この子どもの服をなんとかしなければ、と漆黒は揺れる白色を視界の端に捉えながら、ぼんやりと思った。    石造りの廊下を歩くと、カラカラと下駄が鳴る。  梓の足元は薄汚れたスニーカーだ。  服だけではなく、靴も必要か……。  いや、梓はずっとここで暮らすわけではないので、そんなに色々揃えなくてもいいのかもしれない。  このひと月をやり過ごせば……漆黒はまた、自由に動けるようになるのだ。  溜め息をひとつ落として、漆黒は蜂巣(ハチス)への道を辿った。  この先にある蜂巣は、丸窓からバラのアーチが見える洋風な部屋になっていて、そこがいつも、漆黒と涼香(すずか)が会う場所であった。  昨夜は青藍が相手をしたようだが……あの女のことだから、手ぶらで来たわけではないだろう。    漆黒は、目当ての蜂巣へと入り、部屋を見渡した。  すでに清掃の手が入った後だ。ベッドメイクも床掃除も完璧にされている。  漆黒に続いて扉を潜った梓が、物珍しそうに大きな瞳を丸くしていた。 「ここの風呂は大理石(マーブル)で、評判がいいんだ。せっかくだから見て来いよ」  漆黒は梓へとそう声を掛け、バスルームへと誘導する。    梓の背がドアの向こうに消えたのを確認して、漆黒はアンティークな箪笥の一番下の引き出しを開けた。  上から二つの引き出しには香油やローション、スキンや玩具などなど、プレイのときに使うグッズがそれぞれ箱に納まって入っているが、三段目以降は空で、淫花廓に数日泊まり込む流連(いつづけ)の客などが、着替えを置いておけるようになっていた。    どこの蜂巣にも箪笥は設置されているが、この……涼香が必ず指定するこの部屋の、一番下の引き出しだけは二重底に細工されている。  細工したのは漆黒だ。  そして、このことを知っているのは、漆黒と涼香だけである。  漆黒は手早く携帯灰皿から小さな針金を取り出し、引き出しの裏面に開けてある小さな穴へとそれを刺した。  底板が持ち上がり、その下には折りたたまれた紙が入っていた。  それを指で摘まみ上げ、底板を戻し、引き出しを閉める。  その途中でバスルームの扉が開閉する音がした。  梓がもう戻ってきたのだ。  漆黒は少年を振り向き……さりげない動作で引き出しをきちんと閉じると、 「なんだよ、もういいのか?」  と尋ねた。  梓がおどおどと頷く。 「は、はい」 「お子様には、良さはわからねぇか」  梓に向かって笑いかけながら、漆黒は、着物の袂からタバコの箱を取り出した。    一本を摘まみだすのと入れ違いに、箪笥に入っていた紙をそこに詰め込む。  無意識の動作でタバコに火を点けてそれを喫いながらも、漆黒の頭は紙片のことで埋め尽くされていた。    涼香、という名の女は、二年前に淫花廓(ここ)へ来た。  30代半ばの、中々グラマーな体つきをした気の強そうな女だった。  彼女は漆黒を指名したその日に、自分が警察関係者であることを漆黒へと告げてきた。  漆黒が身分秘匿捜査員となり、淫花廓へ潜ることが決まったとき、万が一にも漆黒の身分が露見しないよう、漆黒に接触する捜査員は、客もしくは客の関係者に扮することになると説明を受けていた。    涼香が真実、警察関係者なのかどうか……淫花廓は、男娼の身の安全を保障するという名目の下、客の手荷物チェックを行う。そのため、警察手帳などはもちろん持って入ることができず、彼女の言葉の真偽は、彼女自身の証言だけで判断しなければならなかった。  しかし涼香は、漆黒がここへ潜ることになった過程を熟知しており、彼女の語る上司などの特徴は、漆黒の知るそれと一致していた。  そして彼女は、漆黒の元を訪れる度に、現在の警察の動きを教えてくれるのだった。  上司や同僚が扱っているヤマ、漆黒が担当していた事件の捜査状況、それから……淫花廓に対しての調査の進捗などなど……涼香の話を聞いていると、漆黒は己が警察官であることを実感することができた。    漆黒から涼香に提供できる情報は乏しく、捜査に有益な証拠を掴むことができていない。  そのことを情けなく思いながらも、漆黒は、数か月に一度の彼女の訪れを心待ちにしていた。    男娼として過ごす時間が長くなるにつれ、己が何者なのかが曖昧になってゆく。  アイデンティティが揺らぐのは恐ろしい。  しかし肩肘を張って淫花廓の内部を捜索することにちからを注ぎ過ぎれば、漆黒の正体が露見するリスクが高まってしまう。  漆黒は飽くまで男娼として、ここに溶け込み、自然な流れの中で情報を探ってゆくしかないのだった。  それが、つらい。  警官と男娼。もう、どちらが本当の自分なのか、わからないほどに混在してしまっている。   早く、検挙できるだけの決定的な証拠を掴んで。  ここから出なければ……。  三年という月日を淫花廓で過ごす漆黒の内側には、そんな焦りが積み重なっていて。  それが、梓、という足枷をつけられたことで、急激に膨らんでいた。  子守りを押し付けられたために、ひと月も、外部との接触が断たれてしまったのだ。   梓が居なければ、漆黒は昨夜、涼香と直に会話することができただろうし、青藍が行かなければならないと言っていた篠村の奥様の会食にだって、漆黒が行くことができたのに……。  男娼にとって、淫花廓の外へ出る、という機会は貴重で……会食などで大勢の人間と言葉を交わすことができれば様々な情報が手に入るし、涼香以外の捜査員と接触することだって可能なのに、と。  考えれば考えるほど、焦りと苛立ちが募ってゆく。  梓のせいじゃない。  自分にそう言い聞かせる。  漆黒が思うように動けないのは、決してこの子どものせいではない。  しかし、梓を疎む気持ちが、漆黒の中には確かにあって……それを顔に出さないように、漆黒は忙しなくタバコを吹かした。  梓は、うまく手懐けなければならない。  彼がなんのためにここで、ひと月を過ごさなければならないのか。  その理由如何(いかん)によっては、淫花廓(ここ)を摘発する材料になるかもしれない。ひと月後に外の世界へ戻るこの子どもを使って、上司たちになにか情報を届けることができるかもしれない。  利用価値があるものは、大切に扱わなければ……。  だからいま、漆黒の苛立ちをそのまま梓にぶつけることは、なんの利も生まない。  自分をそう納得させて、漆黒はタバコを揉み消し、梓を促して蜂巣を出た。    涼香が寄越してきた紙片の内容を、早く確認したい。  急くような思いが、漆黒の足を速めさせた。  着物の裾が足元に絡まってくるが、構わずに大股で歩いた。  小道から石造りの渡り廊下まで戻ったところで、不意に声を掛けられる。 「おや? こんなところには似つかわしくない、可愛い子どもが居るね。しずい邸から、迷い込んで来たのかな?」  吐息を揺らすように微笑して、そう言ったのは般若(はんにゃ)面を着けた男衆であった。  ……いや、男衆、という括りに入れていいのかは疑問である。  なぜなら彼は、他の男衆たちとは明らかに違っているからだ。  細く、(たお)やかな肢体は女物の黒い留袖を纏い、似つかわしくない、と言った般若こそが、このゆうずい邸には似つかわしくない……『雌』を感じさせるような、妖艶な色気を振りまいているのだった。  この般若が、ゆうずい邸をうろつくようになったのは、ほんの数か月前の話である。    男衆として、ゆうずい邸の見習い男娼の教育係を任されている、という説明を受けてはいたが、それにしては随分と自由に敷地内を闊歩している、と漆黒は思った。  おまけに般若の傍らには、巨躯の怪士(あやかし)面の男が常に付き従っていた。  この黒衣の怪士面も、他の男衆とは違う。怪士の中では彼だけが、蓄髪をゆるされているようだった。 「般若」  漆黒は、警戒を潜ませた声で、彼を呼んだ。  ふふ、と蠱惑的な声で、笑って。 「蜂巣になにか、用事でもあったのかな?」  般若が、漆黒の内面を探るように、その鬼の金色の目を向けてきた……。               

ともだちにシェアしよう!