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第15話

 女の嫉妬を(かたど)ったという鬼女の面越しに、般若(はんにゃ)に観察されている、と漆黒(しっこく)は思った。  一度、ふぅ、と吐息してから、漆黒は唇の端で笑い、自分の背中に隠れるように立っていた(あずさ)の腕を掴んで、般若との間に子どもの体を割り込ませた。 「散歩がてら、こいつを案内してたんだよ」  誰かに蜂巣(ハチス)への立ち入りを見咎められた際にそう言い逃れができるよう、漆黒は梓を伴っていたのだった。 「ふ、ふふっ……。ヤるためだけの部屋を子どもに見せるなんて、いけない大人だね」  細い肩を揺らして、般若が笑った。  彼のよく手入れされたような指先が、なめらかな動作で伸ばされ、梓の小さな顎へと絡む。  くい、と上を向けられて、梓が戸惑ったような目で般若を見た。 「可愛がってもらってるかい?」  やさしげな口調で、般若が問いかけた。  梓は丸い瞳を更に大きくして、 「は、はい」  と、つっかえながら頷いた。 「し、漆黒さんには、とても、やさしくしてもらってます」  素直な言葉だった。    漆黒は……苦い気持ちがじわりと湧き起って来るのを自覚した。    漆黒が梓に親切に振る舞っているのは、彼を利用しようとしているからだ。  施設育ちで、ボロを纏った、世慣れない子どもなど……かんたんに手の上で転がすことができる。  どんな経緯かは知らないが、性技を仕込まれるために遊郭で暮らす、という特殊な環境下では、与えられた親切がほんの僅かであっても、それは最大限の効果を生み出すことだろう。  現にたった数日で、漆黒を見る梓の瞳が蕩けたような色を浮べることがあることに、漆黒は気付いていた。  漆黒の親切は打算の産物だ。  それを疑わぬ愚かな子どもは、般若へとはにかむような笑みを見せていた。  般若の指が、するり、と梓の頬を撫でた。  動作のひとつひとつがひどく艶めかしく、目を惹いた。 「それならば、良かった。蜂巣は楽しかったかい?」 「あ、あの……バラがとても、綺麗でした」 「バラ……ああ、あの部屋か。きみのお客様が、よくお泊りになる部屋だね」  般若が、思わせぶりに漆黒へと顔を巡らせ、そう言った。    蜂巣は大雑把には和室と洋室に分けることができるが、そのひとつひとつには異なるコンセプトがあり、丸窓から見える風景もまた、それぞれ違っているのだった。  いま梓がバラ、と口にしたことで、漆黒が入った部屋が絞られたことになる。  だがべつに、隠すほどのことではない。  堂々としていれば、怪しまれる類の話ではないはずだ。  箪笥の二重底だって、知らなければ気付かない。  しかし……。  そう言えば梓には、箪笥の引き出しを閉めるところを目撃されている。  見学名目で入った蜂巣の、一番下の引き出しを開ける必然性はどこにもなく、明らかに不自然な行動だ。 「般若」  漆黒は割って入るように声を発した。  般若の肩辺りまで伸ばされた髪が、さらりと揺れる。  能面の下の顔がどのような表情を浮かべているのか、漆黒に窺い知る術はない。  男衆は、厄介なのだった。  刑事として誰かと相対するときは、まず、目を見る。  雑談のような他愛ない会話をしながら、無意識の動作や癖を探すために、全身を観察するのだが、まず第一は目だ。  しかし男衆は皆、能面を纏っているために、その目ですらも影となり、そこから読み取れるものはほとんどない。  本来であれば男娼が立ち入れない裏方の情報などを集めるため、男衆を懐柔し手懐けて情報提供者を数人作りたいところであったが、『男衆』という括りの中で個性を封じ、機械の部品であるかのように粛々と動く彼らには、迂闊に手を伸ばせずに、また、その人物を測るための目ですら碌に拝ませてもらえないのだから、漆黒はこの三年、歯がゆい思いを味わっているのだった。  鬼女の面を着けた男が、ことりと小首を傾げる。 「なんだい?」  そう問われて、漆黒は警察官としての己を腹の奥底に閉じ込め、口を開いた。 「子ども用の服はあるか?」 「……なんだって?」 「こいつの服だ。ひと月も同じ服じゃああんまりだろ」  くい、と親指で梓を示すと、梓がパチパチと瞬いた。    般若がくるりと背後を振り向き、 「あるのか?」  と尋ねた。  問うた先には、巨躯の男が居る。  短髪の怪士(あやかし)面の男衆は、置物のように静かに控えていたが、般若に声を掛けられて、曖昧に首を捻った。 「……どうでしょう。楼主に伺ってみましょうか?」 「ん……いや、いい。しずい邸なら、なにかあるだろう」  独り()ちるようにそう呟いた般若が、漆黒に向き直り、問いかける。 「適当に見繕っていいのかな?」 「ああ、頼む」    漆黒が軽く頷くと、般若はくるりと踵を返し、怪士を促して足を踏み出した。  カラリ、と黒塗りの丸下駄が鳴るのを見て、 「般若。靴もだ」  と漆黒は注文を付け足す。  ふふ、とさざ波のような笑い声とともに、般若が顔だけを振り向けて、甘い声で囁いた。 「おやさしいことだね」  ……楼主と同じことを言う、と漆黒は腹立たしいような感情を覚えた。  利用しようとしている子どもに対し、衣類を施す、という漆黒の偽善を、見透かされたような気分だった。 「うるさい。さっさと行け」  漆黒は犬でも追い払うように、シッと手を振った。  その瞬間、怪士面の男にぎょろりと睨まれた……ような気がした。  ピリ……と一瞬張りつめた空気を、般若が他愛なく散らした。 「怪士。おいで」  鍛え上げた肉体を持つ怪士は、主人に呼ばれたドーベルマンのように静かな動作で般若の半歩後ろに従い、ゆったりと歩き去ってゆく。  その後ろ姿を、梓がポカンとした様子で見送っていた。    彼の黒い瞳が、何度目かの瞬きの後、おもむろに漆黒の方へと向けられる。 「……服……」  梓が、恐る恐るというようにそっと声を発した。  漆黒は小さく笑って、彼のやわらかな髪をくしゃりと撫でる。 「まともな服があるかどうかは知らねぇが、まぁ、そのずるずるしたのよりはいいだろ。今日中には持って来てくれるはずだ」 「す、すみません……僕が、見苦しいから……」  身を縮めて、小柄な梓がうつむいた。  その背中が丸いラインを描いている。  梓が猫背なのは、いつもそうやって小さくなっていたからだと、不意に漆黒は思った。  彼が育ったという施設は、あまり性質(たち)の良いところではないのだろう。  殴られることに慣れている子ども。  背中を丸め、縮こまって暮らす梓……。  その想像は、容易で。  漆黒は苦い気持ちを舌の上でつぶして、脳裏にこびりつく感傷を振り払うように、梓の背中をバシっと叩いた。 「梓、背中」 「は、はいっ」  梓が慌てて背筋をピンと伸ばす。  そして漆黒を見上げて……眉尻を下げた困り顔で、にこりと笑った。    彼のその表情に……漆黒の胸が、ちくりと疼いた……。     

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