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第16話

 ベッドの上に並べられたたくさんの衣類に、(あずさ)は感嘆の声を漏らした。  漆黒の部屋のベッドルームが、ちょっとしたブティックのようになっている。  丁寧に置かれた服は……なんだかすごく高そうなものばかりだ。  Tシャツやジャージに慣れていた梓が、これまでに袖を通したことがないようなフォーマルな服が多く、カジュアルなものも仕立てが良さそうだった。  洋服に混ざって、和服もある。着物の価値なんてわからないけれど、こうして並んでいるのだから、安いわけがないだろう。  大きな籠を持ってわざわざ衣類を運んでくれた般若(はんにゃ)が(いや、実際に籠を運んだのは、このほっそりとした般若ではなく、彼に付き従っている大柄で逞しい男衆だ)、吐息するように面の下で笑いを漏らす。 「とりあえず、サイズが合いそうなものを持って来たよ」 「おう。悪いな」 「あと、靴はこっち」 「梓、履いてみろ」 「は、はいっ」  漆黒(しっこく)に促され、梓は慌てて返事をする。    梓は怪士(あやかし)面の男の傍へ行き、床に置かれていた靴を順番に履いていった。  革靴や、レースアップのブーツ、丸下駄などが並んでいる。  巨躯の男が屈みこみ、梓が靴を履くのを手伝ってくれるので、梓は恐縮してしまう。 「取り敢えず、服は全部置いといてくれ」 「へぇ……豪勢なことだね」 「うるさい。……あって困るもんじゃないだろ」 「ふふ……。では、楼主にはそのように言っておくよ」    漆黒と般若のやりとりが聞こえてきて、梓はハッと顔を振り向けた。  もしかしてこの服は……すべて買い取りになるのだろうか。 「あ、あのっ」 「ん? どうした?」 「ぼ、僕、やっぱり、いりません……」  梓の言葉に、男が怪訝な顔をする。  その目を見ていられずに、梓は羞恥に俯いた。  視線の先には、ぴかぴかの靴がある。  新品、というものを、梓は身に着けたことがない。  施設ではいつも誰かのお古が与えられたし、靴だってたくさんはなかったから、サイズの合わなくなった小さなものを、その踵を踏みつぶして履いていたのだった。  施設に比べると、漆黒の部屋にあるものはすべて、高級で……。  それが似合う男の前では、梓の存在自体がもう、恥ずかしく思えてきた。  しかし、身なりを整えようと思っても、梓には先立つものがない。  当然のように新しい服を並べられ、履き心地の良い靴を試したところで……それを買う金がなかったのだ。  梓は俯いたままで、ぼそぼそとそれを大人たちに伝えた。 「ぼ、僕、お金がなくて……」  消え入りそうなその語尾に被って、甘い笑い声が響く。  般若が、黒い着物を纏った肩を、細かく揺らして笑っていた。 「ふ、ふふっ。ずいぶんと可愛いことを言うね」  優美な足運びでこちらへ歩み寄って来た彼は、能面越しに梓を覗き込んでくる。  さらり、と肩まで伸ばされた髪が流れた。 「きみの世話は、あの男の仕事だ。甘えておきなさい」  とろりとした声で、囁かれ。  梓は二度、瞬きをした。 「漆黒さんが、買うってことですか?」 「そうだよ」 「じゃ、じゃあ、なおさらいりません。ぼ、僕にお金を使ったりしないでください」  ふるふると首を振ってそう訴えると、(たお)やかな印象の男衆がまた笑いを漏らした。  不意に、背後からため息が降ってくる。  と同時に背中を軽く叩かれた。 「梓。背中」    漆黒に指摘され、梓は無意識の内に丸まっていた背筋を急いで伸ばした。  男の大きなてのひらが、梓の肩に乗る。 「恥をかかせるな」  ぼそり、と色気のあるバリトンの声が、囁いた。  梓はポカンと、男を見上げる。 「ど、どういう意味ですか……?」 「ふふ……ゆうずい邸の人気男娼も、おぼこい子どもの前では形無しだね。大丈夫だよ、それしきの服を数着買った程度では、さほどの負担もない。この男は結構稼ぐからね。にっこり笑ってお礼を言えば、それで釣り合う」  笑顔とお礼の言葉が、服や靴と釣り合うとは到底思えずに、梓は困ってしまった。  眉尻を下げた情けない顔で、傍らの男を伺うと、漆黒が唇の端を持ち上げて、シニカルな笑みを浮かべていた。 「おーおー、さすが、元男娼は言うことが違うな」  漆黒の言葉に、おや、と般若が小首を傾げる。 「僕がだと、言った覚えはないけれど?」 「立ち居振る舞いを見てりゃわかる。が堂々とうろちょろするな」 「ふ、ふふっ……。無駄だよ。僕を暴いたところで、きみに(えき)はない」  梓にはわからぬやりとりを、漆黒と般若が交わしている。  怪士面の男が音もなく立ち上がり、そっと般若の背後に控えた。  一瞬、空気が緊張を孕んだ。  しかしすぐにそれは霧散した。  漆黒が、袂から取り出したタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。 「用が済んだら出て行け」 「その前に、楼主からの伝言がある」 「なんだ」 「『ちんたらしてんじゃねぇ』」  般若が、急に蓮っ葉な口調になった。  梓はここへ来た初日に会った、着流し姿の男のことを思い出す。  煙管(キセル)の、甘い煙の臭いのする男。  梓の事情を、すべて知る男……。  伝言はたぶん、漆黒に向けられたものだ。  けれど梓は、自分が言われた気分になった。  ちんたらしてんじゃねぇ。  そうだ。  梓には時間がない。    漆黒のやさしさに、暢気に浮かれてる場合ではなかった。  早く最後まで抱いてもらって……。  梓がちゃんとできるように、すべてを教えてもらわなければならない。  そうでなければ、理久(りく)に。  この役が、回ってしまう。  それだけは、あってはならないことだった。  梓はぎゅっと服の裾を握り締めた。  頬の内側を、歯で噛みしめて、溢れだしそうになる様々な感情をやり過ごす。  ちゃんと、己の役割を全うすると、決めていた。  いまさら怖いなんて言わない。やめたいなんて言わない。  梓は。  梓は……。  瞳の奥にちからを込めて、梓は漆黒を見つめた。  漆黒は苦いような顔をして、ふぅ、と煙を天井へと吐き出した。  その、少し鋭い彼の目にも、なにか、決意のようなものが閃いたような気がして。    梓は今日、漆黒に最後まで抱かれるのだと、予感した……。  

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