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第21話

 (あずさ)、という子どもを楼主から押し付けられてから、十日が経った。  男を知ったからだろうか。  梓の白い肌やその表情には、最初の頃にはなかった艶が生まれていた。  そして……漆黒(しっこく)がそう仕向けた通り、黒い瞳には……恋情が。  瞬きをする瞬間。  指先で、触れてくる刹那のとき。  キスを交わす間際の、吐息の甘さ。  彼の仕草の端々に、己への恋心が潜んでいることを、漆黒は早い段階で気付いていた。    これで梓を懐柔しやすくなった。  そう思うと同時に、舌の奥に苦みがピリっと走るが、それには気付かないふりをする。  どうせ、あと二十日で離れる相手だ。  利用できるものは利用する。上司にはそう習ったし、そのように行動に移して来た。今回も、ただそれだけの話なのだ。   「昼は、食堂に行くぞ」  漆黒がそう声を掛けると、ベッドから起き上がった梓が、 「はい」  と頷いて笑った。  細い肢体が、しなやかに動いて。  クローゼットに掛けてあった衣類を手早く身に纏ってゆく。  般若(はんにゃ)が用意してくれた服はどれも上質で、身なりを整えた梓は上流階級の子息のようにも見えた。 「馬子にも衣裳だな」  顎髭を撫でながらそう言うと、梓がはにかむような微笑を見せた。  純真なその目を見ていられずに、漆黒はタバコを吸う振りで視線を逸らせた。      漆黒が梓を伴ってゆうずい邸の中を移動すると、居合わせた男娼たちの視線が梓に集まるのがわかる。  彼が来た初日は、これほどではなかった。  梓に新たに備わった艶が、そうさせるのだろうか。  ゆうずい邸の男娼は皆、最も本能的な『性』を売り物にしている男たちだ。  雄ばかりが集まる群れには、当然のことながらヒエラルキーが存在した。  淫花廓(いんかかく)で言うならばそれは、売上額で決まる。    稼ぎが大きいということは即ち、指名がよく入るということである。  だから上部の者たちには余裕があるし、心身ともに安定している者が多い。  しかし、下位の男娼たちはそうはいかない。  借金が返せない苛立ち、固定客がつかない焦燥、誰かと比べられそれよりも劣っていると言われる屈辱。  様々なマイナスの感情が混ざり合い、複雑なフラストレーションを抱えた男娼たちの間では、いざこざが絶えない。  それを発散する方法が、喧嘩以外にないからだ。  その、男たちの中に。  いまは梓が居る。  漆黒が傍に付き、さりげなくガードしているが……彼らの梓を見る目の色が、ここ数日で変化してきているように思う。  その原因は、梓に色気が出てきたからだけではないと、漆黒は睨んでいる。  男娼たちの欲求不満をいたずらに刺激しているのは、梓ではなく、般若だ。  女物の着物に身を包み、雌の気配をまき散らしながらゆうずい邸を闊歩している男衆。  顔は能面に隠れて見えないが、その体つきだけでも彼が極上の『雌』であることが知れた。般若が自由気ままに、ボディガードよろしく屈強な怪士(あやかし)面を引きつれてこんな場所に出入りしているため、お茶を曳くことが多い男娼たちの欲望は揺さぶられ、熱を帯びるのだった。  般若に向けることのできない劣情が、より無力な梓へと向けられるのも、ある意味当然の帰結である。  楼主は、それをわかった上で漆黒に、「四六時中傍に居ろ」と命じたのだろう。  もう、梓は迂闊に部屋の外に出さないほうがいいのかもしれない。  しかしあと二十日も、部屋に閉じ込めておくのは可愛そうか……。  漆黒は思案しながら、梓と連れ立って食堂までの廊下を歩いた。   「聞いたぜ、漆黒」  不意に、背後から肩を掴まれて、漆黒は足を止めた。  振り向かずとも、声だけで誰かわかる。  鼻を鳴らして、不快なてのひらの熱を振り払った。 「触んじゃねぇよ。ったく……」  吐息混じりに吐き捨てて、漆黒は横目で後ろに立つ男を見た。  そこには、軽薄を絵に描いたような薄笑いを浮かべた、櫨染(はじぞめ)という男娼が立っていた。  ゆうずい邸の男娼には、色の名前が与えられている。  楼主がその人物を目にしたときの印象で名付けられるのだが、櫨染(はじぞめ)はなるほど、その髪の色も黄色味を帯びて明るく、外見はホストそのものであった。  淫花廓(ここ)の男娼にしては珍しく、耳にはピアスが嵌められている。  高級遊郭として名を馳せる淫花廓ではあるが、客のあらゆるニーズに応えることができるよう、取り揃えられた男娼のタイプも様々なのだ。  詳しくは知らないが、ゆうずい邸の川を挟んだ向こう側に建つしずい邸には、男に抱かれるための男娼が居るのだと聞く。  恐らくはそのしずい邸の方が、男娼の選別は厳しいのだろう。 「なんの用だ、櫨染(はじぞめ)」  (すが)めた視線を男へ向ければ、櫨染が薄い唇をにやりと吊り上げた。  「いやいや、おまえがなんか楽しそうなコトしてるって、もっぱらの噂でさ~」 「淫花廓(ここ)で噂を真に受ける奴は、バカって相場が決まってるがな」  ふん、と鼻を鳴らした漆黒は、梓の体をさりげなく背に隠した。  櫨染がそれを見逃さずに、面白そうに眼を細める。 「が、楼主からの預かりもの? へぇ、結構可愛いじゃん」  ひょい、と漆黒の肩越しに梓の顔を覗き込んで。  櫨染が舌なめずりでもしそうな表情を浮かべた。  売上額で言えば漆黒と櫨染は比べ物にならない開きがあったが、入廓した時期がほぼ同じであったため、櫨染は同期感覚で馴れ馴れしい口をきいてくる。   「を仕込むのがいまのおまえの仕事だって? 随分と楽して稼ぐんだな~。あ、それともあれか。男娼としてはそろそろ(とう)がたってきたから、お役御免になるのかな~?」  自分よりも年長の漆黒を、そんなふうに(けな)して、櫨染が無遠慮に梓の腕を掴んだ。 「わっ」  唐突に引き寄せられた梓が、バランスを崩してまろぶように漆黒の背後から引きずり出された。 「に色々教えりゃいいんだろ? その役、俺に代われよ」 「はぁ? バカかおまえは」 「なんでだよ? おまえだって、のせいで本命と会えてないんだろ? このままじゃ客をピチピチの青藍(せいらん)に盗られちゃうぜ?」  意地悪く囁いた男の指が、梓の顎を掴んだ。 「味見しちゃおうかな~」  そう言って、べろり、と伸びた男の舌が。  梓の唇を舐めた。 「ひぅっ」  咄嗟に顔を背けた梓が、悲鳴を零して櫨染(はじぞめ)から逃れようとする。  しかし、男の手が腕をきつく掴んでいるため、離れることができない。  漆黒は反射的にてのひらで梓の唇を覆い、櫨染の狼藉を跳ねのけた。  梓の片方の腕が漆黒へと伸ばされ、着物の裾をぎゅっと握ってくる。抱き着くわけでもなく、ただ、いじらしいような仕草で指を絡め、大きな瞳でひたと見上げられて……漆黒は、胸苦しいような感覚に襲われた。  てのひらの下には、梓の唇。  この、やわらかな桜色を汚されたような気がして、櫨染(はじぞめ)に対し強烈な怒りを感じた。   「気安くさわるな」  低い声で吐き捨てた漆黒へと、櫨染がへらへらと笑ってくる。 「ははっ。どうせ、ここを出たら色んな男に輪姦されるんだろ、そいつ。早い内からおまえ以外の味も覚えさせたほうが、のためにもなるって」 「なんだと?」 「こんなとこに放り込まれるガキなんて、ロクなもんじゃないってことさ」 「いい加減、その汚い口を閉じろ」  漆黒は、梓の唇から離した手で、櫨染の胸倉を掴んだ。  (あわせ)のゆるんだ胸元に視線を投げて、櫨染がますます挑発するように口角を上げた。 「あれあれ? ムキになっちゃって、おまえらしくないなぁ、漆黒?」  男の指摘に、漆黒の頭が一瞬にして冷えた。  そうだ。こんなのは自分らしくない。  男娼たちの、日常茶飯事のように起こる喧嘩を遠巻きに眺め、またやってるな、と観客の立場でタバコをふかしているのが、漆黒だ。  これまで、櫨染の挑発になど乗ったことがなかったのに……。  ちっ、と舌打ちをして。  漆黒は乱暴に櫨染を突き飛ばした。  後方に一歩下がった男は、笑いながら袷を伸ばして整えていく。 「梓。行くぞ」  梓の薄い背に手を添えて、漆黒は廊下を歩きだした。  梓が惑うような視線を、漆黒と櫨染の間で往復させる。  櫨染がへらりと笑って梓に手を振るのが見えた。 「構うな」  短く、梓へと告げて。  その場を離れようとした漆黒の背に、櫨染の声が投げられる。 「気が変わったらいつでも言えよ~? 俺が代わってやるからさ」  漆黒は男の言葉を黙殺した。  苛立ちが腹の奥にくすぶっており、我知らず眉間にしわが寄っていた。 「あ、あの……」  漆黒に背を押される形で小走りになっていた梓が、おずおずと話しかけて来る。  漆黒はそこで初めて早足になっていたことを悟り、歩調をゆるめた。 「どうした」  問いかけると、梓がくせのない髪をさらりと揺らし、 「す、すみませんでした」  と謝罪をしてきた。   「……なんでおまえが謝るんだ」  意味が解らずに、漆黒は首を傾げた。  そんな漆黒を見上げて。  梓が、忙しない瞬きをした。 「ぼ、僕のせいで、その……本命の方に、会えないって……」  本命。  一瞬なんのことが理解できなかったが、すぐに、先ほどの櫨染(はじぞめ)のセリフだと思い至る。 (おまえだって、これのせいで本命と会えてないんだろ?)     周囲が漆黒の本命だと勝手に認識しているのは、涼香(すずか)のことだ。  涼香との間に色っぽい関係は存在しない。ただの警察関係者というだけだ。しかし、折に触れて淫花廓を訪れ、漆黒を指名する状況を思えば、周りの誤解は却ってありがたかった。  そして、櫨染の言葉は正しい。  梓に付きっ切りの状況にさせられている漆黒は、涼香に会うことができない。  そのことは、もどかしい。  もどかしいが……。  大きな黒い瞳を揺らして、 「すみませんでした」  と、梓が。  子犬のような顔で、謝ってくるから……。    漆黒は、なにか、居たたまれないような思いになって、眉をきつく寄せた。 「おまえが謝ることじゃない」  口からつるりと、梓を突き放すような言葉がこぼれてしまう。  梓がきゅっと唇を結んで、視線を俯けた。  本命など居ない、と言ってやれば……梓は安堵するだろう。本命は居ない。漆黒が抱くのは、梓だけだ、と。甘い言葉を伝えてやれば、梓は安心するだろう。  彼を利用するならば、とことんまで自分に惚れさせた方がいい。  それは、わかっていた。  しかし、声が出ない。  純真な子どもを騙してるのだという呵責(かしゃく)が、自分の中にあるのだろうか?  そんな、真っ当な感覚が、まだ己に残っていたのだろうか?  漆黒は横目で梓を見つめながら、自問した  濃く長い睫毛が、まろやかな頬に影を落とすのを、漆黒はただ、無言で目に映していた。  彼を慰める言葉も、持たずに……。          

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