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第25話
ひどいことをしている、という自覚は漆黒の胸をチリリと焼いた。
しかしこの子どもは切り札になる。
漆黒が、淫花廓から出て、警察官の身分を取り戻す切り札に。
淫花廓及び楼主の、違法行為や薬物売買への関与などはひとつとして暴けなかったが、暴力団との癒着は、梓の話から確かなこととなった。
鬼頭組と柴野組の今後の動きは、注視すべきものがある。
特に、柴野が長沼組に吸収されるとなると、彼の持つ覚せい剤の取引ルートなどに動きがあるかもしれない。
それを抑えれば一斉摘発が可能になる。
その情報を漆黒が上司にもたらすことができれば……情報と引き換えに、この身分秘匿捜査を終了させてもらうよう進言することができるのだった。
柴野組へ影武者として差し出される梓が、うまく柴野の情報を掴んでくれれば……それもまた手土産になる。
しかし。
漆黒が梓に「鬼頭と柴野の情報をくれ」と言うことは、すなわち。
梓が愛人の身代わりになることを、たすけない、ということを意味していた。
梓は還暦を過ぎた男の元へ預けられ、双方の組の間で今後の方向性についてきちんとした合意がなされるまでの期間を、そこで過ごさなければならない。
鬼頭の愛人の影武者として出向くので、もちろん柴野にも抱かれるだろう。
柴野が梓にまともな待遇をしてくれる、という保証もない。
もしかしたら梓は……他の組員にも抱かれるかもしれなかった。
梓自身、そこまで考えが至っていない可能性がある。
だから、親友のためにと引き受けたのかもしれない。
けれど漆黒は。
それをすべてわかった上で、梓に、情報提供者になってほしいとお願いしているのだった。
梓の、子犬のように黒い瞳が、ひたむきに漆黒を見つめている。
失望の色は、そこには見つけられなかった。
イエス、と言わせるために漆黒は、梓に恋をさせたのだ。
物慣れぬ施設育ちの子どもに。
愛情と見間違えるような、嘘まみれのやさしさを……たくさん注いだのだった。
梓の眉が、少しだけ寄せられた。
「情報提供って、どうやってすればいいんですか?」
無邪気なまでに率直に、梓が問うてくる。
漆黒は……梓がすぐに断らなかったことに、安堵するような落胆するような妙な心持ちになった。
「……おまえがここを出るとき、俺のエスだとわかるようにカードを持たせる。それを持って、警察に行ってくれ。上司の名前を出せば、話は通るようにしておく」
「……エス?」
「スパイの、エスだ」
漆黒は空中にアルファベットの綴りを書いた。
梓が納得したようにこくりと頷く。
「佐和山は切れ者で……目的のためには手段を選ばないような男だが、基本的に女子どもには手を出さない。今回のおまえの件がイレギュラーなぐらいだ。だから、柴野の元から戻ったおまえを、無下に扱ったりはしないと俺は思う。おまえは柴野、鬼頭の両組で見聞きしたことを警察で話してくれるだけでいい」
「……漆黒さんは……」
梓が顔の向きを正面に戻して、ぽつりと呟いた。
「漆黒さんは、その……鬼頭さんと、柴野さんを捕まえたいんですか?」
問われて、漆黒は顎髭を撫でた。
「そりゃあ検挙できるようなネタでもあれば、飛びつきたいな。そうしたら俺は、ここから出られるかもしれない」
「……ここって、このゆうずい邸のことですか?」
「そうだ。男娼じゃなく、警察官に戻りたい。だからおまえが協力してくれれば、それが果たせるかもしれない」
梓の目が、落ち着きなく動いた。
漆黒の言葉を、吟味しているのかもしれない。
漆黒は機を逃さぬよう、口を開いた。
「俺が淫花廓から出ることができたら……必ずおまえを迎えに行く」
ハッと、双眸を見開いて。
梓の視線が漆黒へと固定された。
大きな瞳が、ゆらゆらと揺れている。梓の薄い唇が、ひくりと震えた。
なにかを言いたげに動いたそれが、一度開いて……またすぐに閉じる。
「柴野のところへやられるおまえには、つらい思いをさせることになるが……その後のことは、俺が必ず責任を持つ。おまえをしあわせにする」
腕の中の細い体が、かすかに強張った。
プロポーズのようだ、と漆黒は思う。
梓を、自分の思い通りに動かすための。
嘘だらけの、プロポーズ。
「おまえを、必ずしあわせにする。だから梓、俺に協力してくれ」
上滑りしている、という自覚はあった。
言葉だけが、ツルツルと喉を上滑りしている。
こんな子どもを駒にして……そこまでして警察の身分を取り戻したいのか、と。
もうひとりの自分が、頭の中でがなり立てていた。
やっぱりいまの話はなしだ、と。
そう言うべきだった。
いまの話はなしだ。忘れてくれ。おまえが身代わりなんてしなくていいような方法を、なにか考える。
梓に告げるべき言葉はちゃんと浮かんでくるのに、それが中々声にならない。
苦悶する漆黒よりも先に、梓の方が口を開いた。
「……できません」
つらそうに、眉を寄せて。
頼りなく、梓がうつむいた。
漆黒は一瞬、梓がなんと言ったのかよくわからなくなった。
傲慢な話ではあるが、まさか断られるとは、思っていなかったのだ。
「梓……」
「すみません。できません」
もう一度、漆黒の要望を跳ねのけて。
梓がちからなく首を振った。
「そうか……」
虚脱する思いで、漆黒はそう相槌を打つ。
ため息が、唇の隙間から漏れた。
失望したような、ホッとしたような、奇妙な心持ちであった。
「そうか……」
二度、繰り返して。
漆黒は深く、頷いた。
「で、でも」
梓が慌てたように言葉を付け足した。
「他に、僕にできることがあれば」
「もういい」
梓の声を途中で遮り、漆黒は唇にタバコを挟んだ。
「もういいんだ」
もう一度、そう告げて。
ライターで先端を炙った。
ぼうっとオレンジ色にそこが燃えるのを、物言いたげな目をした梓が見上げている。
煙が天井へと細く立ち上った。
漆黒はしばらく、無言でそれを見ていた。
梓もまた、なにも言わなかった。
あと二十日。
漆黒はこの子どもを傍に置いておかなければならない。
漆黒が自身の身分を暴露してしまった以上、彼がそれを他の人間に言わぬよう、監視をしなければならなかった。
しかし、梓がここを去って以降も、自分は男娼として淫花廓に居続けねばならぬのか、という、先の見えぬ二重生活が、重く漆黒の肩に圧し掛かっていた。
その苛立ちを梓にぶつけるのはお門違いだ。
それはよくわかっている。
けれどいまは……。
腕の中の梓に、やさしい言葉をかけることが、できないままだった……。
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