27 / 54

第26話

(あずさ)」  と、梓を呼ぶ男の声のトーンは変わらない。  ベッドの中ではこれまで通り、やさしく、大切に梓の体を開いてくれる。    けれど唇が触れあうことは、あの日以降なくなってしまった。  梓が、漆黒(しっこく)の頼みを拒絶した、あの日から……。  漆黒のためになるのなら、梓はなんだってしたかった。  出会ってまだ二週間。  熱に浮かされているようだと、自分でも思う。  だけど梓は、これ以上を知らない。  漆黒以上のやさしさを、他に知らない。  初めての相手が彼で良かったと、思っている。  漆黒に出会って、梓は。  抱かれるときの心地良さを、知った。  タバコの味のキスを、知った。  恋を……。  恋することの胸苦しさを、知った……。  彼は仕事で梓を抱いただけだということは、わかっていた。  それでも梓は、嬉しかった。  やさしさを、注ぎ込んでもらった分。  彼に、なにかを返したいと思った。  漆黒のちからになれるのならば、柴野だろうが鬼頭だろうが、梓の見聞きしたことをすべて彼に渡したかった。  しかし梓にはそれができない。  できない事情が、あった。 「梓」  呼ばれて、顔を上げる。 「飯に行くぞ」 「は、はい」  梓は慌てて立ち上がり、身なりを整えた。  漆黒が扉の前でタバコをふかしながら、梓を待っている。  ふぅ、と煙を吐き出す唇を、無意識のうちに見つめていた。    タバコの苦みの残る、あの唇に。  キスが、したい、と。  唐突に湧き上がって来た欲求を、梓はきゅっと口を引き結んで抑え込んだ。  パタパタと梓が男へ歩み寄ると、漆黒は半分ほどの長さになったタバコを、入り口横の棚の上に置いてあった灰皿に押し付けて、火を揉み消した。  漆黒が先に扉の外へ出てゆく。  その背に付いていこうと、靴に足を突っ込んだ梓は……不意に、灰皿に残った吸い殻に引き寄せられるようにして手を伸ばした。  ひしゃげたタバコを、てのひらに乗せる。  先端が、ほんのりとした熱を宿していた。  くん、と鼻を鳴らすと、漆黒そのもののような香りがして……。  梓は衝動のままにそれを握り締め、ポケットへと入れた。  バカな真似をしている、と思ったが、手放せなかった。 「梓?」  中々扉を潜って来ない梓を訝って、漆黒が振り返る。 「い、いま行きますっ」  梓は急いで廊下へ出て、漆黒と連れ立って食堂へと向かった。  歩を進めていると、向こうから黒い(つむぎ)姿の般若(はんにゃ)怪士(あやかし)が近付いてくるのが見えた。  漆黒が足を止めたので、梓もつられて立ち止まった。 「ちょうど良かった。いま呼びに行こうと思ってたんだよ」  うつくしい足運びで歩み寄って来た般若が、甘い声でそう言った。  面越しの彼の目は、漆黒ではなく梓に据えられている。 「ぼ、僕に、なにか御用ですか?」  なんのこころ当たりもなくて、梓はパチパチと瞬きをした。  ふふ、と吐息のように般若が笑う。 「きみに、お客様がお見えだよ」 「お客様……?」 「楼主が呼んでる。ついておいで」  ひらり、としなやかな手に招かれて、梓は咄嗟に漆黒を仰いでいた。  行っていいのだろうか……。  戸惑う梓へと、眉を寄せて怪訝な表情になった漆黒が、 「客って誰だ?」  と梓の代わりに問いかけてくれた。  おや、と般若が嫋やかに首を傾げる。  何気ない仕草にも色香が滴るようで、梓はドキリとした。      「きみに、なにか関係があるかい?」 「ここに居る以上、梓は俺の預かりだ。俺にも話を通すのが筋だろう」    漆黒の手が、伸ばされて。  梓の肘の辺りを掴んできた。  梓をまもろうとするような仕草にも見えて、梓の胸が切なく疼いた。    このひとは、いつも当たり前のように梓を気にかけてくれている……。  服越しに、漆黒のてのひらの熱が伝わってくる。    不意に、「必ずおまえを迎えに行く」と言ったバリトンの声が耳の奥に思い出された。  ベッドの上に……低く、やさしい漆黒の声と……タバコの香りが落ちてきて。  梓は……嬉しかった。  漆黒に、そう言ってもらえて嬉しかった。  しあわせにする、と。  おまえを必ずしあわせにする、と。  まるでプロポーズのような言葉を口にした漆黒が……どこか、痛みをこらえるような表情をしていて。  ああ、嘘なのだな、と気付いた。  梓の小さな裸の体は、すっぽりと漆黒の腕に包まれていて。  彼の肌はあたたかかった。    やさしいひとだ。  漆黒の温もりに満たされて、梓はそう思った。    嘘を、嘘と隠し切れない、やさしいひとなのだ。  早く淫花廓(ここ)を出たい、という漆黒の想いは梓にも伝わってきた。  梓がもたらす情報如何によっては、警察の身分に彼を戻すことができるのだということも、わかった。    ゆうずい邸を出て、警察官に戻って……。  そうしたら漆黒は、どうするのだろうか。  涼香という女性と、結婚するのだろうか。  だから、男娼を辞めたいのだろうか……。  漆黒がしあわせになるのなら、梓はそれを手伝いたかった。  けれど梓には……。    それを為すだけの、時間が……。 「梓!」  男の手に体を揺らされて、梓はハッと我に返った。  漆黒が、眉を寄せた苦い表情でこちらを見ていた。  眉間に寄せられたしわが、まるであの日、ベッドの中で梓に、「しあわせにする」と言ったときと同じもののようで……梓はパチパチと瞬いた。   「大丈夫か?」  バリトンの声が、気遣わしげに囁いてくる。 「……え?」  なんのことかわからずに、梓は首を傾げた。 「もしかして聞いてなかったのかい?」  般若がそう言って、梓の頬にするりと細い指を滑らせた。 「きみの途中経過が知りたいと言って、佐和山さまがお見えだと言ったんだよ。おいで。楼主が待っている」  梓はポカンと、口を開けた。 「俺も行く」  梓の肘を掴んだままで、漆黒がそう言った。  般若が鼻で笑って、 「お呼びじゃないよ」  とそれを退けた。 「さっき、きみが自分で言っただろう。梓は自分の預かりだ、と。元の持ち主が来たんだから、きみの出る幕じゃないよ」    漆黒の手が緩んだ。  あ、と思った次の瞬間には、男の手は梓から離れていた。  それを惜しむ隙も奪うように、般若の手がそこを掴み、そのまま歩き出した。  カラカラと、般若の履いた丸下駄が、軽やかな音を立てる。    梓はまろぶように足を前へ出しながら、顔だけを振り向けた。  廊下には、漆黒が佇んでいて……。  彼の眉間にはまた、深いしわが刻まれていた。  不意に怪士面の男の巨躯が、ぬっと視界に割り込んで来て、漆黒の姿を隠してしまう。  夢の世界から、急に現実へと引きずり戻されたようで……。  梓はただ茫然と、般若に手を引かれて歩いたのだった。        

ともだちにシェアしよう!