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第27話

 (あずさ)が居なくなった。  数着の服と、靴と、歯ブラシやコップなどの小物を残して。    梓が居なくなった。   「どういうことだ、ひと月じゃなかったのか?」  楼主の元へと向かった梓が夜になっても部屋へ戻って来なかったため、痺れを切らした漆黒(しっこく)は男の部屋まで押しかけ、荒い声を聞かせる。    着流しに懐手、といういつものスタイルで煙管(キセル)を吹かしていた淫花廓(いんかかく)の楼主は、漆黒を見て唇を歪めた。 「おーおー、えらい剣幕じゃねぇか」  揶揄うように煙を吐き出し、楼主は眼差しだけで座るように促してくる。  それを無視して男の正面に立った漆黒は、 「梓をどこへやった」  と問い質した。  楼主が軽く肩を竦め、煙管の雁首をカツンと灰皿に当てた。 「俺が隠したわけじゃねぇよ。あちらさんが、途中経過を知りたいと言うから、一旦返しただけだ。梓は向こうでを受けて、不充分な箇所があればまた戻される」    男の言葉に、頭の奥がカッと熱を持った。  この男は……男娼を『商品』と言い切るこの男は……梓ですらも『物』として捉えているのか……。  あんな、たった十七歳の子どもを。  やくざへ投げ与えても構わない、ただの『物』だと思っているのか。  楼主の胸倉を掴んで弾劾したい衝動に、漆黒は襲われた。  しかし、この男と自分と、一体なにが違うというのか、と。  耳の奥で響いた己の声に、ハッと身じろぐ。  漆黒も、同じだ。  梓を道具として使おうとした漆黒も、漆黒が嫌悪している楼主と、まったく同じではないか。  棍棒で頭を殴られたかのような衝撃とともに、漆黒はそれを思い知る。    楼主を責める資格など、漆黒には毛の先ほどもないのだった。  いつ戻ってくる、とも知れぬ子どもを待つためだけに男娼のスケジュールを空けておくほど、楼主はひとが良くない。  漆黒は翌日から、男娼として(くるわ)へ上がることとなった。  予約はすべて断ってしまっていたので、飛び込みの客を相手することとなる。  梓以外を抱くのは、実に半月ぶりのことであった。  ゆうずい邸の男娼は、相手が誰であろうが楽しませることが信条だ。  愛を囁き、肉欲に溺れさせる。  そこに男女の別はない。    しかし、梓に身分を明かしたからだろうか。  漆黒は、『漆黒』を上手く装えずに苦労した。  警察官の自分が、金で性を売って客を抱くのだ。  遠の昔に捨てたはずの……いまさらすぎる葛藤が、胸の底を焼いている。  そこからなんとか目を逸らし、漆黒は客と肌を合わせた。  男根がなかなか反応してくれなかったが、客に恥をかかせるわけにはいかない。    今日の客は、三十代の男性だった。  最近になって自分がゲイかもしれないという疑いを抱き、自分の性的嗜好を確かめるために一度抱いてほしい、というリクエストであった。    なにも知らない体、というのは、ある意味梓に通じるものがあって……。  男の体を丁寧に開きながらも、漆黒の思考はつい梓に向かってしまう。    どうしているのだろうか。  やくざの元で、どのような待遇を受けているのだろうか。  そう考える傍から、放っておけ、と忠告めいた声も聞こえてくる。  漆黒に協力する気がないのなら、梓は漆黒とは無関係の人間だ。  鬼頭組が梓を引き取っていったというのなら……あの子どもがもうここに戻って来ないのなら、それでいいではないか。    この二重生活をやめたい、と焦るあまりにうっかり自分の正体を明かしてしまったが、梓がそれを知っているということは、漆黒にとってはリスクにしかなり得ない。  その梓が居なくなったのだ。喜ばしいことである。 「ああっ!」    不意に耳元で嬌声が上がった。  聞き慣れた声よりも低い喘ぎにぎょっとして、漆黒はまじまじと相手の顔を見る。  そこには……梓とは似ても似つかない大人の男が横たわっていて……思わず後孔を弄る手を止めてしまった。    自分はいま、梓を抱いているのではない。  そんな当然のことを、一瞬でも失念していたことに、ひどく驚いていた。    熱い吐息を零しながら、客の男が漆黒の手を掴んだ。 「もっと……もっと、してください」  欲望に掠れた声が、愛撫の続きを強請(ねだ)ってくる。  悪くない表情だ。  とろりとした目には、色気も感じ取れた。  客の美醜など選べぬ立場なのだから、今日の相手が、そこそこに若く、見目も良い客であることを、喜ぶべきである。  余計なことを考えて、気を散らして場合ではない。  そう、自分を叱咤しつつも、漆黒は。  梓とは違う体温を。  梓とは違う匂いを。  梓とは違う声を。  梓ではない、男を……。    違和感として、捉えてしまっていることに、気付いてしまった。  その違和感が、漆黒から性的な欲求を奪ってゆく。  まだ着物の下に収まっている漆黒のペニスは、ぴくりとも兆しておらずに、漆黒はただ困惑した。  そんなバカな、と思う。  数年も男娼をやってきたこの『漆黒』が。  客を、他の人間と比べて、あまつさえ、自分の体をコントロールできないなんて……。     漆黒は、ぐちゅり、と香油でほぐした後孔に指を突き入れて、男を責め立てることに集中した。  派手な水音の合間に、梓のものではない喘ぎ声が聞こえてくる。  悶えながらも客が、両手を伸ばして漆黒の背に抱き着いてきた。 「き、キス、しても、いいですか……」  途切れ途切れに、そう問われる。  漆黒は頷いて、唇を寄せた。  触れ合ってすぐに、舌が伸ばされる。  積極的な口づけに、漆黒は応えた。  ざり……と漆黒の顎髭を、男の指が愛撫の仕草で撫でた。  女とは明らかに違う、『雄』を感じさせる場所に嫌悪がないのだから、恐らくこの客は、純粋なヘテロではないだろう。    彼は今日、漆黒に抱かれて、己が男に抱かれることで快楽を得るタイプの人間だと知るのだ。  上手くいけば、次からも漆黒を指名してくれるかもしれない。  彼は弁護士一家のエリートで、金には困らない人間なので、太客になる可能性だってあった。  だから。  満足してもらわなければならない。  それなのに……。  キスを解いた客が、唾液で濡れた唇を、ふふっとほころばせて。 「タバコの味ですね」  と、言ったから。  漆黒はまた、ここには居ない子どものことを、思い出してしまったのだった……。       

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