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第28話
「嫌だわ」
と、女が言った。
綺麗にネイルを施した爪先を見ながらベッドに腰を下ろして、優雅に足を組んでいる彼女の名は、涼香という。
名字は知らない。涼香というのが本名なのかもわからない。
だが、警察関係者であることは、彼女の持って来る情報から伺い知ることができた。
涼香は漆黒の『協力者』で……外の動きを色々と教えてくれるのだ。
涼香と会うときにいつも使う蜂巣で、漆黒はタバコを吸いながら女が赤い唇を不満げに尖らせるのを見ていた。
この蜂巣には一度、梓を連れてきたことがある。
あのときは、ここのタンスの二重底に隠された、涼香からの情報を取りにきたのだった。
「なんであんたがフリーなのよ? せっかく今回も青藍くんと楽しめると思ってたのに」
涼香の言葉に、漆黒は肩を竦めた。
なるほど、今日も青藍を指名するつもりだったのか。
道理で髪や服装に気合が入っていると思った。
そもそも涼香が漆黒を指名するのは、情報の受け渡しのみが目的で、そこに肉体関係が存在したことは一度たりともないのだった。
漆黒が、涼香の指名を他の誰よりも優先しているため、漆黒の本命だ、と周囲に誤解されているが、定期的に会う口実になるのだから、その勘違いは却ってありがたかった。
涼香がグロスをたっぷりと塗った唇に、シガレットケースから摘まみだしたタバコを挟んだ。
漆黒はすぐにその先端に、己のライターで火をつけた。
涼香が無言で長方形のケースをこちらへと差し出してくる。
漆黒はその中から、筒状に丸められたメモ用紙をひょいと取り出した。
「大体あんた、誰かの専属になったとかで、ひと月分の予約が埋まってるんじゃなかったの? 青藍くんに会えると思って、気合入れて化粧してきた私の貴重な時間を返してほしいわ」
ふぅ、と紫煙を吐き出しながら、涼香が文句を寄越してくる。
「青藍のなにがそんなにいいんだ」
くるくるとてのひらの上で紙を開きながら、漆黒はどうでもいい質問を放った。
言ってから、まるで焼きもちでも焼いているようなセリフだな、と可笑しくなる。
「あら、焼きもち?」
と涼香も尋ねてきた。
お互いに、男女の情が欠片もないので、これはただの軽口だ。
「若さと可愛さ。誰かさんには備わっていないものを、青藍くんは持ってるのよね。お姉さんがなんでも教えてあげる、って気になっちゃう」
ふふっと笑った涼香が、流れるような動作でタバコの灰をガラスの灰皿に落とした。
メモに視線を落としていた漆黒は、チラ、と目を上げて涼香を見る。
この女の職業は、一体なんなのだろう。考えても答えが得られる類のものではなかったが、漆黒は幾度となく抱いた疑問を、今日もまた胸で呟いた。
警察官……ではないと、漆黒は思っている。
なぜなら、一介の警官ごときの収入で通える場所ではないからだ。
この淫花廓は……超がつくほどの高級娼館で、漆黒や青藍クラスの男娼を惜しげもなく指名できるほどの金が、警察組織から出ているとは考えにくいのであった。
「おまえが前回残したメモ。読んだぞ」
「そう。それで、淫花廓はあの件になにか関係してるのかしら?」
「この二週間、子守りを押し付けられていてな。三日前からようやく自由の身になったところだ」
「つまり、裏はとれてない、ってわけね」
役立たず、と罵られたわけではなかったが、そう言われたような気がして、漆黒は苦い思いでタバコを揉み消した。
「鬼頭組と楼主は繋がっている。それは確かだ」
「証拠がないわ」
「鬼頭のところの……佐和山が何度か出入りしている」
「あなたが見たの?」
「いや……」
「話にならないわね」
エクステをつけたふさふさの睫毛を瞬かせて、涼香が尖った顎をくいと動かした。
先に読め、と無言で促され、漆黒は涼香からの情報に目を通す。
そこには、鬼頭の上部組織である長沼組が、柴野を吸収合併しようとしていることが、完結に書かれていた。
それは……梓から聞いた話と一致しており……あの子どもが、真実、柴野と鬼頭との取引に使われるのだと、漆黒に教えていた。
「柴野は覚せい剤を扱っている。その売買ルートを長沼が握るのだとしたら……長沼の勢力が一気に広がることになるわ。淫花廓がそれに加担しているのであれば、ここが取引場所として使われるかもしれない。もしくは、すでに使われているのかも。それを暴いて検挙できれば、大手柄になるわね」
涼香がそう言いながら、唇に咥えたタバコの穂先を向けてくる。
漆黒はそこへと、メモ用紙を近づけた。
オレンジの火が、紙に移る。
みるみるうちに燃えたそれを、灰皿に落として。
漆黒は涼香の情報が灰になるまでを見届けた。
梓のことを。
この女に告げるべきだろうか。
子どもが暴力団の取引に巻き込まれている、と。
そう伝えて、探してもらうべきだろうか。
だが、漆黒が梓のことを涼香に言ったとして。
涼香や上司が、梓の居場所を探ってくれたとして。
けれど恐らく梓は、泳がされるだけだろう。
いま、梓を保護してしまったら。
警察は、ただの可愛そうな子どもを守っただけになってしまう。
『梓』という存在が価値を持つのは、実際に鬼頭組なり柴野組なりに潜り込み、内部の情報を少しでも見聞きした後のことなのだ。
だから警察は、梓をまだ保護してはくれない。
あの子どもをまもる人間は。誰も居ないのだ。
その事実に、漆黒は打ちのめされる思いだった。
自分を筆頭に。
誰も梓を助けてはくれない。
もう忘れた方がいい、と漆黒は己に言い聞かせた。
梓のことは、もう忘れた方がいい。
三日も戻って来ていないのだ。
恐らくは鬼頭組のお眼鏡に適ったのだろう。
二度と会うことはない子どもだ。
漆黒とは、何の関係もない子どもだ。
胸をかきむしりたいほどの焦燥がこみ上げてきたが、漆黒はそれを無理やり飲み込んで、涼香から現在の警察内部の話を聞いたのだった。
日付の変わる直前に、涼香と並んで蜂巣を出た。
そのまま、ゆうずい邸の受付までをお供する。
石造りの回廊にはオレンジのライトが灯り、淫花廓の敷地を幻想的に浮かび上がらせていた。
ここをこうして歩いていると、自分がいる場所が現世なのかどこなのか、曖昧になってくる。
それが自分のアイデンティティの揺らぎとも重ね合わさって、漆黒はぞくりと背を震わせた。
辿り着いたゆうずい邸の一階部分は人工的な白い光に満たされていて、思わずホッと安堵の息が漏れる。
「また来るわ」
涼香が、受付に立つ男衆に聞こえるように、開いた扉の前でそう言った。
漆黒もいつものように女の腰を抱き、
「またな」
と頬にキスを落とす。
ひらりと手を振った涼香が、扉を抑えていた男衆に伴われ、車寄せの方へとカツカツと歩いて行った。
それを目で追っていた漆黒の、視界の隅に。
小柄な影が入り込んだ。
ハッと目を凝らすと、そこには。
フードを目深にかぶった子どもが、スーツ姿の男に肩を抱かれるようにして、立っており。
扉から漏れる白い光が、じっとこちらを見ているその大きな双眸を、浮かび上がらせていた。
漆黒は思わず、彼の名を大声で呼んでいた。
「梓!!」
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