30 / 54

第29話

 鬼頭(きとう)組の佐和山(さわやま)に伴われて、淫花廓(いんかかく)へ戻って来た(あずさ)を、男衆がゆうずい邸の奥へと案内してゆく。  漆黒は、パーカーのフードを目深にかぶるその頼りない背中を目で追った。    高級そうなスーツを隙なく身に纏った佐和山が、梓の腕を掴んでつかつかと歩いている。  廊下を折れる直前で、男がふと振り返り、フロントに佇む漆黒の方をちらと見た。  一瞬、視線が交わった、と思ったが、佐和山の方からそれはすぐに逸らされた。  漆黒は、梓の歩き方が妙にふらふらしているのが気になったが、呼ばれもしないのに追いかけることなど、一介の男娼にゆるされるはずもない。  細い後ろ姿が見えなくなってからため息を漏らし、漆黒は自室へと戻ったのだった。  梓は……またこの部屋に来るのだろうか。  最初に提示されたひと月、という期限は、あと二週間残されている。  残りの日数を、漆黒のもとで過ごすのか……。  漆黒は唇に挟んだ火のついていないタバコをゆらゆらと揺らしながら、ぼんやりと梓のことを考えた。    深夜の二時を回った頃、ノックの音が部屋に響いた。  眠ってはいなかった漆黒は、すぐに扉へと歩み寄り、そっとドアを開いた。  そこには、般若(はんにゃ)の面を被った黒い(つむぎ)姿の細身の男衆が立っていた。  いつものように、その背後には巨躯の怪士(あやかし)面の男が居る。 「こんな時間になんだ」 「お届け物だよ」  素っ気なく、般若が吐き捨てて。  体を横へとずらした。  般若と怪士に挟まれる位置に収まっていたのは、梓であった。  彼は戻って来たとき同様、濃紺のパーカーのフードを鼻の下辺りまで深く被ったまま、小さく頭を下げてきた。 「梓!」  咄嗟に彼へと伸ばした手が、横から般若に叩き落される。  思わずその能面の顔を睨めば、昏い穴の向こうから冷え冷えとした双眸が睨み返してきた。  般若の細い指が、漆黒の寝巻用の浴衣の襟元を掴む。  そのままぐいと引っ張られ、漆黒はたたらを踏むように廊下へと足を踏み出した。 「梓。先に入ってなさい」  漆黒が外へ出た分、空いた玄関のスペースに顎をしゃくって、般若が静かな声で梓を促す。  顔をフードでほとんど隠した梓が、俯いたまま惑うように頭を動かした。  怪士の逞しい腕がドアを押さえ、ゆるいちからで梓の背が押される。  梓は束の間逡巡を見せたが、般若へ一礼をしたのち、室内へと入っていった。  梓が靴を脱ぐのを、漆黒は振り向けた顔で見ていたが、怪士がドアを閉じたせいで視界は遮られた。 「一体なんだってんだ」  漆黒は、襟元を掴んでいる般若の手を、邪険に振り払った。  ふん、と般若が小さく鼻を鳴らす。   「怪士。この男を殴れ」  甘く艶のある声が、突然ぎょっとするようなことを命じた。  言われた怪士も戸惑ったようで、「それは……」と言葉を詰まらせる。 「僕がゆるす。殴れ」  淡々と、般若が繰り返した。 「ふざけんな」  事情の読めない苛立ちも手伝って、漆黒は剣呑な視線を般若へと向けた。 「おまえができないなら僕がする」  その宣言と同時に、般若の右手が飛んで来た。  こんな細腕で殴られても大したダメージはないだろうが、大人しく受けるのも癪で、漆黒は(つむぎ)から覗く白い手首をパシっと捉えた。  そのまま横に捻ってやろうとちからを込めかけた瞬間、その漆黒の手首が大きな手に掴まれる。  横目で見上げると、怪士が鋭い気迫を(みなぎ)らせながら、こちらを(うかが)っていた。    漆黒が般若の手にわずかでも痛みを与えたら、容赦のないちからで骨ごと握りつぶされそうな、冷やりとするような緊迫感を背筋に感じる。  しばらく、無言の睨み合いが続いた。    最初に緊張を解いたのは、般若であった。 「もういい。離せ。怪士」  そう言って彼は、ふぅと吐息した。  般若の言葉を受け、ゆっくりと、漆黒の手首から怪士の指が離れた。  漆黒も、ほとんど同時に般若の腕から手を離した。    般若が細い手首をぶらぶらと振ると、怪士が恭しいまでの動作でその手を取り、傷などがないか検分しだす。  なんて過保護だ、と漆黒は半ば呆れて、半眼でその光景を見た。 「楼主からの伝言だよ」  般若が怪士に片手を預けたまま、静かに口を開く。 「愚図愚図してんじゃねぇ。手前(テメェ)の仕事を思い出せ」  淫花廓楼主の口調を真似て、般若が漆黒へとその言葉を告げた。  漆黒は意味がわからずに、顎髭を指先でざりりと撫でた。 「なんのことだ」 「自分で考えるんだね」  漆黒の問いを、素っ気なく切り捨てて。  般若がくるりと踵を返した。  音もなく、怪士がその後に続く。  いったいなんだったんだ、と漆黒は、ポカンと2人の背が遠ざかってゆくのを見た。        

ともだちにシェアしよう!